財の精細《せいさい》なること上士の夢にも知らざるもの多し。二人扶持《ににんぶち》とは一|箇月《かげつ》に玄米《げんまい》三|斗《と》なり。夫婦に三人の子供あれば一日に少なくも白米一升五合より二升は入用なるゆえ、現に一月二、三斗の不足なれども、内職の所得《しょとく》を以て麦《むぎ》を買い粟《あわ》を買い、或《あるい》は粥《かゆ》或は団子《だんご》、様々《さまざま》の趣向《しゅこう》にて食《しょく》を足《た》す。これを通語にて足《た》し扶持《ぶち》という。食物すでに足《た》るも衣服なかるべからず。すなわち家婦《かふ》の任《にん》にして、昼夜の別《べつ》なく糸を紡《つむ》ぎ木綿《もめん》を織り、およそ一婦人、世帯《せたい》の傍《かたわら》に、十日の労《ろう》を以て百五十目の綿を一反の木綿に織上《おりあぐ》れば、三百目の綿に交易《こうえき》すべし。これを方言《ほうげん》にて替引《かえびき》という。
一度《いちど》は綿と交易してつぎの替引の材料となし、一度は銭と交易して世帯の一分《いちぶ》を助け、非常の勉強に非ざれば、この際に一反を余《あま》して私家《しか》の用に供するを得ず。娘の嫁入前《よめいりまえ》に母子《ぼし》ともに忙《いそがわ》しきは、仕度の品を買《かっ》てこれを製するがために非ず、その品を造るがためなり。或《あるい》はこれを買うときは、そのこれを買うの銭《ぜに》を作るがためなり。かかる理財の味《あじ》は、上士族の得て知るところに非ず。この点より論ずれば上士も一種の小華族というて可《か》なり。廃藩の後、士族の所得は大《おおい》に減じて一般の困迫《こんはく》というといえども、もしも今の上士の家禄を以てこれを下士に附与《ふよ》して下士従来の活計を立てしめなば、三、五年の間に必ず富有《ふゆう》を致すことあるべし。(理財活計の趣を異にす)
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廃藩の後、藩士の所得|大《おおい》に減ずるとは、常禄《じょうろく》の高を減じたるをいうに非ず。中津藩にして古来|度々《たびたび》の改革にて藩士の禄を削《けず》り、その割合を古《いにしえ》に比すればすでに大《おおい》に減禄《げんろく》したるがごとくなるを以て、維新の後にも諸藩同様に更に減少の説を唱《とな》えがたき意味もあり、かつ当時流行の有志者が藩政を専《もっぱら》にすることなくして、その内実は禄を重んずるの種族が禄制を適宜《てきぎ》にしたるが故《ゆえ》に、諸藩に普通なる家禄平均の災《わざわい》を免《まぬ》がれたるなり。然《しか》りといえども常禄の外に所得の減じたるものもまた甚《はなは》だ大なり。中津藩歳入の正味《しょうみ》はおよそ米にして五万石余、このうち藩士の常禄として渡すものは二万石余に過ぎずして、残《のこり》およそ三万石は藩主家族の私用と藩の公用に供するものなり。
この公用とは所謂《いわゆる》公儀《こうぎ》(幕府のことなり)の御勤《おつとめ》、江戸|藩邸《はんてい》の諸入費、藩債《はんさい》の利子、国邑《こくゆう》にては武備《ぶび》城普請《しろぶしん》、在方《ざいかた》の橋梁《きょうりょう》、堤防《ていぼう》、貧民《ひんみん》の救済手当、藩士文武の引立《ひきたて》等、これなり。名は藩士の所得に関係なきがごとくなれどもその実《じつ》は然らず。譬《たと》えば江戸|汐留《しおどめ》の藩邸を上|屋舗《やしき》と唱《とな》え、広さ一万坪余、周囲およそ五百|間《けん》もあらん。類焼《るいしょう》の跡にてその灰を掻《か》き、仮《かり》に松板を以て高さ二間|許《ばか》りに五百間の外囲《そとがこい》をなすに、天保《てんぽう》時代の金にておよそ三千両なりという。この他、平日にても普請《ふしん》といい買物といい、また払物《はらいもの》といい、経済の不始末《ふしまつ》は諸藩同様、枚挙《まいきょ》に遑《いとま》あらず。もとより江戸の町人職人の金儲《かねもうけ》なれども、その一部分は間接に藩中一般の賑《にぎわい》たらざるを得ず。また国邑《こくゆう》にて文武の引立《ひきたて》といえば、藩士の面々《めんめん》は書籍《しょじゃく》も拝借《はいしゃく》、馬も鉄砲も拝借なり。借用の品を用いて無月謝の教師に就《つ》く、これまた大なる便利なり。なかんずく役人の旅費ならびに藩士一般に無利足《むりそく》拝借金|歟《か》、または下《く》だされ切りのごときは、現に常禄の外に直接の所得というべし。また藩の諸役所にて公然たる賄賂《わいろ》の沙汰《さた》は稀《まれ》なれども、自《おのず》から役徳《やくとく》なるものあり。江戸大阪の勤番より携《たずさえ》帰《かえ》る土産《みやげ》の品は、旅費の残《のこり》にあらざれば所謂《いわゆる》役徳を積《つみ》たるものより外ならず。
俗官《ぞっかん》汚吏《おり》はしばらく擱《さしお》
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