き、品行正雅の士といえども、この徳沢《とくたく》の範囲《はんい》を脱せんとするも、実際においてほとんど能《よく》すべからざることなり。藩にて廉潔《れんけつ》の役人と称し、賄賂《わいろ》役徳をば一切取らずとて、人もこれを信じ自《みず》からこれを許す者あれども、町人がこの役人へ安利《やすり》にて金を貸し、または態《わざ》と高利《こうり》にてその金を預り、または元値《もとね》を損して安物を売る等、様々《さまざま》の手段を用いてこれに近づくときは、役人は知らず識《し》らずして賄賂《わいろ》の甘き穽《わな》に陥《おちい》らざるを得ず。蓋《けだ》し人として理財商売の考あらざれば、到底《とうてい》その品行を全《まっと》うすること能わざるものなり。以上|枚挙《まいきょ》の件々はいずれも皆《みな》藩士常禄の他《ほか》に得るところのものなれども、今日《こんにち》に至《いたり》てはかかる無名間接の利益あることなし。藩士の困迫《こんぱく》する一の原因なり。
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第六、上士族は大抵《たいてい》婢僕《ひぼく》を使用す。たといこれなきも、主人は勿論《もちろん》、子弟たりとも、自《みず》から町に行《ゆき》て物を買う者なし。町の銭湯《せんとう》に入《い》る者なし。戸外に出《いず》れば袴《はかま》を着《つ》けて双刀を帯《たい》す。夜行は必ず提灯《ちょうちん》を携《たずさ》え、甚《はなはだ》しきは月夜にもこれを携《たずさう》る者あり。なお古風なるは、婦女子《ふじょし》の夜行に重大なる箱提灯《はこちょうちん》を僕《ぼく》に持たする者もあり。外に出《い》でて物を買うを賤《いや》しむがごとく、物を持つもまた不外聞《ふがいぶん》と思い、剣術道具釣竿の外は、些細《ささい》の風呂敷包《ふろしきづつみ》にても手に携うることなし。
下士はよき役を勤《つとめ》て兼《かね》て家族の多勢《たぜい》なる家に非ざれば、婢僕《ひぼく》を使わず。昼間《ひるま》は町に出《い》でて物を買う者少なけれども、夜は男女の別《べつ》なく町に出《いず》るを常とす。男子は手拭《てぬぐい》を以て頬冠《ほおかむ》りし、双刀を帯《たい》する者あり、或は一刀なる者あり。或は昼にても、近処《きんじょ》の歩行なれば双刀は帯《たい》すれども袴《はかま》を着《つ》けず、隣家の往来などには丸腰《まるごし》[#ここから割り注]無刀のこと[#ここで割り注終わり]なるもあり。また宴席、酒|酣《たけなわ》なるときなどにも、上士が拳《けん》を打ち歌舞《かぶ》するは極て稀《まれ》なれども、下士は各《おのおの》隠し芸なるものを奏して興《きょう》を助《たすく》る者多し。これを概《がい》するに、上士の風は正雅《せいが》にして迂闊《うかつ》、下士の風は俚賤《りせん》にして活溌《かっぱつ》なる者というべし。その風俗を異《こと》にするの証は、言語のなまりまでも相同じからざるものあり。今、旧中津藩地士農商の言語なまりの一、二を示すこと左のごとし。
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上士 下士 商 農
見て呉れよと みちくれい みちくりい みてくりい みちぇくりい
いうことを
行けよという いきなさい いきなはい 下士に同じ 下士に同じ
ことを 又いきない 又いきなはりい
如何《いかが》せんかと どをしよをか どをしゆうか どげいしゆうか 商に同じ
いうことを 又どをしゆうか
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この外《ほか》、筆にも記《しる》しがたき語風の異同は枚挙《まいきょ》に遑《いとま》あらず。故に隔壁《かくへき》にても人の対話を聞けば、その上士たり、下士たり、商たり、農たるの区別は明《あきらか》に知るべし。(風俗を異にす)
右条々のごとく、上下両等の士族は、権利を異《こと》にし、骨肉の縁を異にし、貧富《ひんぷ》を異にし、教育を異にし、理財《りざい》活計《かっけい》の趣《おもむき》を異にし、風俗《ふうぞく》習慣《しゅうかん》を異にする者なれば、自《おのず》からまたその栄誉の所在《しょざい》も異なり、利害の所関《しょかん》も異ならざるを得ず。栄誉《えいよ》利害《りがい》を異にすれば、また従《したがっ》て同情|相憐《あいあわれ》むの念《ねん》も互《たがい》に厚薄《こうはく》なきを得ず。譬《たと》えば、上等の士族が偶然会話の語次《ごじ》にも、以下の者共には言われぬことなれどもこの事《こと》は云々《しかじか》、ということあり。下等士族もまた給人分《きゅうにんぶん》の輩《はい》は知らぬことなれども彼《か》の一条は云々、とて、互に竊《ひそか》に疑うこともあり憤《いきどお》ることもありて、多年|苦々《にがにが
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