旧藩情
福沢諭吉
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旧藩情|緒言《しょげん》
一、人の世を渡るはなお舟に乗《のっ》て海を渡るがごとし。舟中の人もとより舟と共に運動を與《とも》にすといえども、動《やや》もすれば自《みず》から運動の遅速《ちそく》方向に心付《こころづ》かざること多し。ただ岸上《がんじょう》より望観《ぼうかん》する者にして始《はじめ》てその精密《せいみつ》なる趣《おもむき》を知るべし。中津《なかつ》の旧藩士も藩と共に運動する者なれども、或は藩中に居《い》てかえって自《みず》からその動くところの趣《おもむき》に心付かず、不知不識《しらずしらず》以て今日に至りし者も多し。独《ひと》り余輩《よはい》は所謂《いわゆる》藩の岸上に立つ者なれば、望観《ぼうかん》するところ、或は藩中の士族よりも精密ならんと思い、聊《いささ》かその望観のままを記《しる》したるのみ。
一、本書はもっぱら中津旧藩士の情態《じょうたい》を記《しる》したるものなれども、諸藩共に必ず大同小異に過ぎず。或は上士《じょうし》と下士《かし》との軋轢《あつれき》あらざれば、士族と平民との間に敵意ありて、いかなる旧藩地にても、士民共に利害|栄辱《えいじょく》を與《とも》にして、公共のためを謀《はか》る者あるを聞かず。故に世上|有志《ゆうし》の士君子《しくんし》が、その郷里の事態を憂《うれえ》てこれが処置を工夫《くふう》するときに当り、この小冊子もまた、或は考案の一助たるべし。
一、旧藩地に私立の学校を設《もうく》るは余輩《よはい》の多年|企望《きぼう》するところにして、すでに中津にも旧知事の分禄《ぶんろく》と旧官員の周旋《しゅうせん》とによりて一校を立て、その仕組、もとより貧小なれども、今日までの成跡《せいせき》を以て見れば未《いま》だ失望の箇条もなく、先ず費《ついや》したる財と労とに報《むくい》る丈《だ》けの功をば奏《そう》したるものというべし。蓋《けだ》し廃藩以来、士民が適《てき》として帰《き》するところを失い、或はこれがためその品行を破《やぶっ》て自暴自棄《じぼうじき》の境界《きょうがい》にも陥《おちい》るべきところへ、いやしくも肉体以上の心を養い、不覊独立《ふきどくりつ》の景影《けいえい》だにも論ずべき場所として学校の設《もうけ》あれば、その状、恰《あたか》も暗黒の夜に一点の星を見るがごとく、たとい明《めい》を取るに足《た》らざるも、やや以て方向の大概を知るべし。故に今の旧藩地の私立学校は、啻《ただ》に読書のみならず、別に一種の功能あるものというべし。
余輩《よはい》常に思うに、今の諸華族が様々の仕組を設《もう》けて様々のことに財を費し、様々の憂《うれい》を憂《うれえ》て様々の奇策《きさく》妙計《みょうけい》を運《めぐ》らさんよりも、むしろその財の未《いま》だ空《むな》しく消散《しょうさん》せざるに当《あたり》て、早く銘々の旧藩地に学校を立てなば、数年の後は間接の功を奏して、華族の私《わたくし》のためにも藩地の公共のためにも大なる利益あるべしと。これを企望《きぼう》すること切《せつ》なれども、誰に向《むかっ》てその利害《りがい》を説くべき路《みち》を知らず。故に今この冊子を記《しる》して、幸《さいわい》に華族その他有志者の目に触《ふ》れ、為《ため》に或は学校設立の念を起すことあらば幸甚《こうじん》というべきのみ。
一、維新《いしん》の頃より今日に至るまで、諸藩の有様は現に今人《こんじん》の目撃《もくげき》するところにして、これを記《しる》すはほとんど無益《むえき》なるに似《に》たれども、光陰《こういん》矢のごとく、今より五十年を過ぎ、顧《かえりみ》て明治前後日本の藩情|如何《いかん》を詮索《せんさく》せんと欲するも、茫乎《ぼうこ》としてこれを求《もとむ》るに難《かた》きものあるべし。故にこの冊子《そうし》、たとい今日に陳腐《ちんぷ》なるも、五十年の後には却《かえっ》て珍奇にして、歴史家の一助たることもあるべし。
明治十年五月三十日
[#地から2字上げ]福沢諭吉 記
[#改ページ]
旧藩情《きゅうはんじょう》
旧|中津《なかつ》奥平《おくだいら》藩士《はんし》の数、上《かみ》大臣《たいしん》より下《しも》帯刀《たいとう》の者と唱《となう》るものに至るまで、凡《およそ》、千五百名。その身分役名を精細に分《わか》て
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