》しき有様なりしかども、天下一般、分《ぶん》を守るの教《おしえ》を重んじ、事々物々|秩序《ちつじょ》を存して動かすべからざるの時勢《じせい》なれば、ただその時勢に制せられて平生《へいぜい》の疑念《ぎねん》憤怒《ふんど》を外形に発すること能《あた》わず、或は忘るるがごとくにしてこれを発することを知らざりしのみ。
中津の藩政も他藩のごとく専《もっぱ》ら分《ぶん》を守らしむるの趣意《しゅい》にして、圧制《あっせい》を旨とし、その精密なることほとんど至らざるところなし。而《しこう》してその政権はもとより上士に帰《き》することなれば、上士と下士と対するときは、藩法、常に上士に便にして下士に不便ならざるを得ずといえども、金穀《きんこく》会計のことに至《いたり》ては上士の短所なるを以て、名は役頭《やくがしら》または奉行《ぶぎょう》などと称すれども、下役《したやく》なる下士《かし》のために籠絡《ろうらく》せらるる者多し。故に上士の常に心を関するところは、尊卑《そんぴ》階級のことに在り。この一事においては、往々《おうおう》事情に適せずして有害《ゆうがい》無益《むえき》なるものあり。誓《たと》えば藩政の改革とて、藩士一般に倹約《けんやく》を命ずることあり。この時、衣服の制限を立《たつ》るに、何の身分は綿服《めんぷく》、何は紬《つむぎ》まで、何は羽二重《はぶたえ》を許すなどと命《めい》を出《いだ》すゆえ、その命令は一藩経済のため歟《か》、衣冠制度《いかんせいど》のため歟、両様混雑して分明ならず。恰《あたか》も倹約の幸便《こうびん》に格式《かくしき》りきみをするがごとくにして、綿服の者は常に不平を抱《いだ》き、到底《とうてい》倹約の永久したることなし。
また今を去ること三十余年、固《かた》め番《ばん》とて非役《ひやく》の徒士《かち》に城門の番を命じたることあり。この門番は旧来|足軽《あしがる》の職分たりしを、要路の者の考に、足軽は煩務《はんむ》にして徒士は無事なるゆえ、これを代用すべしといい、この考と、また一方には上士《じょうし》と下士《かし》との分界をなお明《あきらか》にして下士の首を押《おさ》えんとの考を交え、その実《じつ》はこれがため費用を省くにもあらず、武備を盛《さかん》にするにもあらず、ただ一事無益の好事《こうず》を企《くわだ》てたるのみ。この一条については下士の議論|沸騰《ふっとう》したれども、その首魁《しゅかい》たる者二、三名の家禄《かろく》を没入し、これを藩地外に放逐《ほうちく》して鎮静《ちんせい》を致したり。
これ等《ら》の事情を以て、下士の輩《はい》は満腹《まんぷく》、常に不平なれども、かつてこの不平を洩《もら》すべき機会を得ず。その仲間《なかま》の中にも往々《おうおう》才力に富み品行|賤《いや》しからざる者なきに非ざれども、かかる人物は、必ず会計書記等の俗役に採用せらるるが故に、一身の利害に忙《いそが》わしくして、同類一般の事を顧《かえりみ》るに遑《いとま》あらず。非役《ひやく》の輩《はい》は固《もと》より智力もなく、かつ生計の内職に役《えき》せられて、衣食以上のことに心を関するを得ずして日一日《ひいちにち》を送りしことなるが、二、三十年以来、下士の内職なるもの漸《ようや》く繁盛《はんじょう》を致し、最前《さいぜん》はただ杉《すぎ》檜《ひのき》の指物《さしもの》膳箱《ぜんばこ》などを製し、元結《もとゆい》の紙糸《かみいと》を捻《よ》る等に過ぎざりしもの、次第にその仕事の種類を増し、下駄《げた》傘《からかさ》を作る者あり、提灯《ちょうちん》を張る者あり、或は白木《しらき》の指物細工《さしものざいく》に漆《うるし》を塗《ぬり》てその品位を増す者あり、或は戸《と》障子《しょうじ》等を作《つくっ》て本職の大工《だいく》と巧拙《こうせつ》を争う者あり、しかのみならず、近年に至《いたり》ては手業《てわざ》の外に商売を兼ね、船を造り荷物を仕入れて大阪に渡海《とかい》せしむる者あり、或は自《みず》からその船に乗る者あり。
もとより下士の輩《はい》、悉皆《しっかい》商工に従事するには非ざれども、その一部分に行わるれば仲間中《なかまうち》の資本は間接に働《はたらき》をなして、些細《ささい》の余財もいたずらに嚢底《のうてい》に隠るることなく、金の流通|忙《いそが》わしくして利潤《りじゅん》もまた少なからず。藩中に商業行わるれば上士もこれを傍観《ぼうかん》するに非ず、往々《おうおう》竊《ひそか》に資本を卸《おろ》す者ありといえども、如何《いかん》せん生来の教育、算筆《さんひつ》に疎《うと》くして理財の真情を知らざるが故に、下士に依頼《いらい》して商法を行うも、空《むな》しく資本を失うか、しからざればわずかに利潤の糟粕《そうはく》を嘗《なむ》るの
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