み。
下士の輩《はい》は漸《ようや》く産を立てて衣食の患《うれい》を免《まぬ》かるる者多し。すでに衣食を得て寸暇《すんか》あれば、上士の教育を羨《うらや》まざるを得ず。ここにおいてか、剣術の道場を開《ひらい》て少年を教《おしう》る者あり(旧来、徒士以下の者は、居合《いあ》い、柔術《じゅうじゅつ》、足軽《あしがる》は、弓、鉄砲、棒の芸を勉《つとむ》るのみにて、槍術《そうじゅつ》、剣術を学ぶ者、甚《はなは》だ稀《まれ》なりき)。子弟を学塾に入れ或は他国に遊学せしむる者ありて、文武の風儀《ふうぎ》にわかに面目《めんもく》を改め、また先きの算筆のみに安《やす》んぜざる者多し。ただしその品行の厳《げん》と風致《ふうち》の正雅《せいが》とに至《いたり》ては、未《いま》だ昔日《せきじつ》の上士に及ばざるもの尠《すく》なからずといえども、概してこれを見れば品行の上進といわざるを得ず。
これに反して上士は古《いにしえ》より藩中無敵の好地位を占《しむ》るが為に、漸次《ぜんじ》に惰弱《だじゃく》に陥《おちい》るは必然の勢《いきおい》、二、三十年以来、酒を飲み宴を開くの風を生じ(元来|飲酒《いんしゅ》会宴《かいえん》の事は下士に多くして、上士は都《すべ》て質朴《しつぼく》なりき)、殊《こと》に徳川の末年、諸侯の妻子を放解《ほうかい》して国邑《こくゆう》に帰《か》えすの令を出《いだ》したるとき、江戸定府《えどじょうふ》とて古来江戸の中津《なかつ》藩邸《はんてい》に住居《じゅうきょ》する藩士も中津に移住し、かつこの時には天下多事にして、藩地の士族も頻《しき》りに都会の地に往来してその風俗に慣《な》れ、その物品を携《たずさ》えて帰り、中津へ移住する江戸の定府藩士は妻子と共に大都会の軽便流を田舎藩地の中心に排列《はいれつ》するの勢《いきおい》なれば、すでに惰弱《だじゃく》なる田舎《いなか》の士族は、あたかもこれに眩惑《げんわく》して、ますます華美《かび》軽薄《けいはく》の風に移り、およそ中津にて酒宴《しゅえん》遊興《ゆうきょう》の盛《さかん》なる、古来特にこの時を以て最《さい》とす。故に中津の上等士族は、天下多事のために士気を興奮するには非ずして、かえってこれがためにその懶惰《らんだ》不行儀《ふぎょうぎ》の風を進めたる者というべし。
右のごとく上士の気風は少しく退却《たいきゃく》の痕《あと》を顕《あら》わし、下士の力は漸《ようや》く進歩の路に在り。一方に釁《きん》の乗《じょう》ずべきものあれば、他の一方においてこれを黙《もく》せざるもまた自然の勢《いきおい》、これを如何《いかん》ともすべからず。この時に下士の壮年にして非役《ひやく》なる者(全く非役には非ざれども、藩政の要路に関《かかわ》らざる者なり)数十名、ひそかに相議《あいぎ》して、当時執権の家老を害せんとの事を企《くわだ》てたることあり。中津藩においては古来|未曾有《みぞう》の大事件、もしこの事をして三十年の前にあらしめなば、即日にその党与を捕縛《ほばく》して遺類《いるい》なきは疑を容《い》れざるところなれども、如何《いかん》せん、この時の事勢においてこれを抑制《よくせい》すること能《あた》わず、ついに姑息《こそく》の策《さく》に出《い》で、その執政を黜《しりぞ》けて一時の人心を慰《なぐさ》めたり。二百五十余年、一定不変と名《なづ》けたる権力に平均を失い、その事実に顕《あら》われたるものは、この度の事件をもって始とす。(事は文久三|癸亥《きがい》の年に在り)
この事情に従《したがっ》て維新《いしん》の際に至り、ますます下士族の権力を逞《たくまし》うすることあらば、或は人物を黜陟《ちゅっちょく》し或は禄制《ろくせい》を変革し、なお甚《はなはだ》しきは所謂《いわゆる》要路の因循吏《いんじゅんり》を殺して、当時流行の青面書生《せいめんしょせい》が家老参事の地位を占めて得々たるがごとき奇談をも出現すべきはずなるに、中津藩に限りてこの変を見ざりしは、蓋《けだ》し、また謂《いわ》れなきに非ず。下等士族の輩《はい》が、数年以来教育に心を用《もちう》るといえども、その教育は悉皆《しっかい》上等士族の風を真似《まね》たるものなれば、もとよりその範囲《はんい》を脱《だっ》すること能《あた》わず。剣術の巧拙《こうせつ》を争わん歟《か》、上士の内に剣客|甚《はなは》だ多くして毫《ごう》も下士の侮《あなどり》を取らず。漢学の深浅《しんせん》を論ぜん歟《か》、下士の勤学《きんがく》は日《ひ》浅《あさ》くして、もとより上士の文雅に及ぶべからず。
また下士の内に少しく和学を研究し水戸《みと》の学流を悦《よろこ》ぶ者あれども、田舎《いなか》の和学、田舎の水戸流にして、日本活世界の有様を知らず。すべて中津の士族は他国に出《いず》
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