ること少なく他藩人に交《まじわ》ること稀《まれ》なるを以て、藩外の事情を知るの便なし。故に下等士族が教育を得てその気力を増し、心の底には常に上士を蔑視《べっし》して憚《はばか》るところなしといえども、その気力なるものはただ一藩内に養成したる気力にして、所謂《いわゆる》世間見ずの田舎者なれば、他藩の例に傚《ならっ》てこれを実地に活用すること能《あた》わず。かつその仲間の教育なり年齢なり、また門閥《もんばつ》なり、おおよそ一様同等にして抜群《ばつぐん》の巨魁《きょかい》なきがために、衆力を中心に集めて方向を一にするを得ず。ついに維新の前後より廃藩置県《はいはんちけん》の時に際し今日に至るまで、中津藩に限りて無事|静穏《せいおん》なりし由縁《ゆえん》なり。もしもこの際に流行の洋学者か、または有力なる勤王家が、藩政を攪擾《かくじょう》することあらば、とても今日の旧中津藩は見るべからざるなり。今その然《しか》らざるは、これを偶然の幸福、因循《いんじゅん》の賜《たまもの》というべし。
中津藩はすでにこの偶然の僥倖《ぎょうこう》に由《より》て維新の際に諸藩普通の禍《わざわい》を免《まぬ》かれ、爾後《じご》また重ねてこの僥倖を固くしたるものあり。けだしそのこれを固くしたるものとは市学校の設立、すなわちこれなり。明治四年廃藩のころ、中津の旧官員と東京の慶応義塾と商議の上、旧知事の家禄を分《わか》ち旧藩の積金《つみきん》と合《がっ》して洋学の資本となして、中津の旧城下に学校を立ててこれを市学校と名《なづ》けたり。学校の規則もとより門閥《もんばつ》貴賤《きせん》を問わずと、表向《おもてむき》の名に唱《となう》るのみならず事実にこの趣意を貫《つらね》き、設立のその日より釐毫《りごう》も仮《か》すところなくして、あたかも封建門閥の残夢中《ざんむちゅう》に純然たる四民同権の一新世界を開きたるがごとし。
けだし慶応義塾の社員は中津の旧藩士族に出《いず》る者多しといえども、従来少しもその藩政に嘴《くちばし》を入れず、旧藩地に何等《なんら》の事変あるも恬《てん》として呉越《ごえつ》の観《かん》をなしたる者なれば、往々《おうおう》誤《あやまっ》て薄情《はくじょう》の譏《そしり》は受《うく》るも、藩の事務を妨《さまた》げその何《いず》れの種族に党《とう》するなどと評せられたることなし。故にこの市学校を設立するにも、真に旧藩地一般のためにするの事実明白にして、何等の陋眼《ろうがん》をもってこれを視《み》るも、上士を先《さき》にするというべからず、下士を後《のち》にするというべからず、その目的とするところは正《まさ》しく中津旧藩の格式りきみを制し、これを制了して共《とも》に与《とも》に日本社会の虚威《きょい》を圧倒せんとするもののごとくにして、藩士のこの学校に帰《き》すると否《いな》とはその自然に任《まか》したりしに、士族の上下に別なく漸《ようや》く学に就《つ》く者多く、なかんずく上等士族の有力なる人物にて、その子弟を学校に入るる者も少なからず。
すでに学校に心を帰《き》すれば、門閥《もんばつ》の念も同時に断絶してその痕跡《こんせき》を見るべからず。市学校は、あたかも門閥の念慮《ねんりょ》を測量《そくりょう》する試験器というも可《か》なり。(余輩《よはい》もとより市学校に入らざる者を見て悉皆《しっかい》これを門閥守旧の人というに非ず。近来は市校の他に学校も多ければ、子弟のために適当の場所を選ぶは全く父母の心に存することにして、これがため、敢《あえ》てその人物を軽重《けいちょう》するにはあらざれども、真に市校に心を帰して疑わざる者は、果して門閥の念を断絶する人物なるが故に、本文のごとくこれを証するのみ。)下等士族の輩《はい》が上士に対して不平を抱《いだ》く由縁《ゆえん》は、専《もっぱ》ら門閥|虚威《きょい》の一事に在《あり》て、然《しか》もその門閥家の内にて有力者と称する人物に向《むかっ》て敵対の意を抱《いだ》くことなれども、その好敵手《こうてきしゅ》と思う者が首《しゅ》として自《みず》から門閥の陋習《ろうしゅう》を脱したるが故に、下士は恰《あたか》も戦わんと欲して忽《たちま》ち敵の所在を失《うしな》うたる者のごとし。敵のためにも、味方のためにも、双方共に無上の幸《さいわい》というべし。故にいわく、市学校は旧中津藩の僥倖《ぎょうこう》を重ねて固くして真の幸福となしたるものなり。
余輩《よはい》の所見《しょけん》をもって、旧中津藩の沿革《えんかく》を求め、殊《こと》に三十年来、余が目撃と記憶に存する事情の変化を察すれば、その大略、前条のごとくにして、たとい僥倖にもせよ、または明《あきらか》に原因あるにもせよ、今日旧藩士族の間に苦情争論の痕跡《こんせき》を見ざるは事
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