実において明白なり。(今年数十名の藩士が脱走《だっそう》して薩《さつ》に入りたるは、全くその脱走人限りのことにして、爾余《じよ》の藩士に関係あることなし。)然《しか》りといえども、今日の事実かくのごとくにして、果して明日の患《うれい》なきを期すべきや。これを察せざるべからず。今日の有様を以て事の本位と定め、これより進むものを積極となし、これより退《しりぞ》くものを消極となし、余輩をしてその積極を望ましむれば期《き》するところ左《さ》のごとし。
 すなわち今の事態を維持《いじ》して、門閥の妄想《もうそう》を払い、上士は下士に対して恰《あたか》も格式りきみの長座《ちょうざ》を為《な》さず、昔年のりきみは家を護り面目《めんもく》を保つの楯《たて》となり、今日のりきみは身を損《そん》じ愚弄《ぐろう》を招《まね》くの媒《なかだち》たるを知り、早々にその座を切上げて不体裁《ぶていさい》の跡を収め、下士もまた上士に対して旧怨《きゅうえん》を思わず、執念《しゅうねん》深きは婦人の心なり、すでに和するの敵に向うは男子の恥《はず》るところ、執念《しゅうねん》深きに過ぎて進退《しんたい》窮《きゅう》するの愚《ぐ》たるを悟《さと》り、興《きょう》に乗じて深入りの無益たるを知り、双方共にさらりと前世界の古証文《ふるしょうもん》に墨《すみ》を引き、今後《こんご》期《き》するところは士族に固有《こゆう》する品行の美《び》なるものを存して益《ますます》これを養い、物を費《ついや》すの古吾《こご》を変じて物を造るの今吾《こんご》となし、恰《あたか》も商工の働《はたらき》を取《とっ》て士族の精神に配合し、心身共に独立して日本国中文明の魁《さきがけ》たらんことを期望《きぼう》するなり。
 然《しか》りといえども、その消極を想像してこれを憂《うれ》うれば、また憂うべきものなきに非ず。数百年の間、上士は圧制を行い、下士は圧制を受け、今日に至《いたり》てこれを見れば、甲は借主《かりぬし》のごとく乙は貸主《かしぬし》のごとくにして、未《いま》だ明々白々の差引《さしひき》をなさず。また上士の輩《はい》は昔日の門閥を本位に定めて今日の同権を事変と視做《みな》し、自《おのず》からまた下士に向《むかっ》て貸すところあるごとく思うものなれば、双方共に苟《いやしく》も封建の残夢を却掃《きゃくそう》して精神を高尚の地位に保つこと能《あた》わざる者より以下は、到底《とうてい》この貸借《たいしゃく》の念を絶つこと能わず。現に今日にても士族の仲間《なかま》が私《わたくし》に集会すれば、その会の席順は旧《もと》の禄高または身分に従うというも、他に席順を定むべき目安《めやす》なければ止《や》むを得ざることなれども、残夢《ざんむ》の未《いま》だ醒覚《せいかく》せざる証拠なり。或は市中公会等の席にて旧套《きゅうとう》の門閥流《もんばつりゅう》を通用せしめざるは無論なれども、家に帰れば老人の口碑《こうひ》も聞き細君《さいくん》の愚痴《ぐち》も喧《かまびす》しきがために、残夢《ざんむ》まさに醒《さ》めんとしてまた間眠《かんみん》するの状なきにあらず。これ等《ら》の事情をもって考《かんがう》るに、今の成行きにて事変なければ格別なれども、万に一も世間に騒動《そうどう》を生じて、その余波近く旧藩地の隣傍に及ぶこともあらば、旧痾《きゅうあ》たちまち再発して上士と下士とその方向を異《こと》にするのみならず、針小《しんしょう》の外因よりして棒大《ぼうだい》の内患を引起すべきやも図るべからず。
 しかのみならず、たといかかる急変なくして尋常《じんじょう》の業に従事するも、双方互に利害情感を別にし、工業には力をともにせず、商売には資本を合《がっ》せず、却《かえっ》て互に相《あい》軋轢《あつれき》するの憂《うれい》なきを期すべからず。これすなわち余輩の所謂《いわゆる》消極の禍《わざわい》にして、今の事態の本位よりも一層の幸福を減ずるものなり。けだし人事の憂患《ゆうかん》、消極の域内に在るの間は、未《いま》だその積極を謀《はか》るに遑《いとま》あらざるなり。
 今消極の憂《うれい》を憂《うれえ》てこれを防ぐにもせよ、積極の利を謀《はかっ》てこれを求《もとむ》るにもせよ、旧藩地にて有力なる人物は必ずこれを心配することならん、またこれを心配して実地に従事するについては様々の方便もあらん、また様々の差支《さしつかえ》もあらん、不如意《ふにょい》は人生の常にしてこれを如何《いかん》ともすべからず。故に余輩の注意するところは、未《いま》だ積極に及ばずして先ずその消極の憂を除くの路《みち》に進まんと欲するなり。すなわちその路《みち》とは他《た》なし、今の学校を次第《しだい》に盛《さかん》にすることと、上下士族|相互《あいたがい》に婚姻
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