《こんいん》するの風を勧《すすむ》ることと、この二箇条のみ。
 そもそも海を観《み》る者は河を恐れず、大砲を聞く者は鐘声《しょうせい》に驚かず、感応《かんのう》の習慣によって然《しか》るものなり。人の心事とその喜憂《きゆう》栄辱《えいじょく》との関係もまた斯《かく》のごとし。喜憂栄辱は常に心事に従《したがっ》て変化するものにして、その大《おおい》に変ずるに至《いたっ》ては、昨日の栄《えい》として喜びしものも、今日は辱《じょく》としてこれを憂《うれう》ることあり。学校の教は人の心事を高尚《こうしょう》遠大《えんだい》にして事物の比較をなし、事変の原因と結果とを求めしむるものなれば、一聞一見も人の心事を動かさざるはなし。
 地理書を見れば、中津の外に日本あり、日本の外に西洋諸国あるを知るべし。なお進《すすみ》て、天文地質の論を聞けば、大空《たいくう》の茫々《ぼうぼう》、日月《じつげつ》星辰の運転に定則あるを知るべし。地皮の層々、幾千万年の天工に成りて、その物質の位置に順序の紊《みだ》れざるを知るべし。歴史を読めば、中津藩もまたただ徳川時代三百藩の一のみ。徳川はただ日本一島の政権を執《と》りし者のみ。日本の外には亜細亜《アジア》諸国、西洋諸洲の歴史もほとんど無数にして、その間には古今《ここん》英雄|豪傑《ごうけつ》の事跡《じせき》を見るべし。歴山《アレキサンダー》王、ナポレオンの功業を察し、ニウトン、ワット、アダム・スミスの学識を想像すれば、海外に豊太閤《ほうたいこう》なきに非ず、物徂徠《ぶつそらい》も誠に東海の一小先生のみ。わずかに地理歴史の初歩を読むも、その心事はすでに旧套《きゅうとう》を脱却《だっきゃく》して高尚ならざるを得ず。いわんや彼《か》の西洋諸大家の理論書を窺《うかが》い、有形の物理より無形の人事に至るまで、逐一《ちくいち》これを比較分解して、事々物々の原因と結果とを探索《たんさく》するにおいてをや。読《よみ》てその奥に至れば、心事《しんじ》恍爾《こうじ》としてほとんど天外に在《あ》るの思《おもい》をなすべし。この一段に至《いたり》て、かえりみて世上の事相を観《み》れば、政府も人事の一小区のみ、戦争も群児の戯《たわむれ》に異《こと》ならず、中津旧藩のごとき、何《なん》ぞこれを歯牙《しが》に止《とむ》るに足《た》らん。
 彼《か》の御広間《おひろま》の敷居《しきい》の内外を争い、御目付部屋《おめつけべや》の御記録《ごきろく》に思《おもい》を焦《こが》し、※[#「弗+色」、第3水準1−90−60]然《ふつぜん》として怒り莞爾《かんじ》として笑いしその有様《ありさま》を回想すれば、正《まさ》にこれ火打箱《ひうちばこ》の隅《すみ》に屈伸《くっしん》して一場の夢を見たるのみ。しかのみならず今日に至《いたり》ては、その御広間もすでに湯屋《ゆや》の薪《たきぎ》となり、御記録も疾《と》く紙屑屋《かみくずや》の手に渡りたるその後において、なお何物に恋々《れんれん》すべきや。また今の旧下士族が旧上士族に向い、旧時の門閥《もんばつ》虚威《きょい》を咎《とが》めてその停滞《ていたい》を今日に洩《も》らさんとするは、空屋《あきや》の門に立《たち》て案内を乞《こ》うがごとく、蛇《へび》の脱殻《ぬけがら》を見て捕《とら》えんとする者のごとし。いたずらに自《みず》から愚《ぐ》を表《あらわ》して他《た》の嘲《あざけり》を買うに過ぎず。すべて今の士族はその身分を落したりとて悲しむ者多けれども、落すにも揚《あぐ》るにも結局物の本位を定めざるの論なり。平民と同格なるはすなわち下落ならんといえども、旧主人なる華族《かぞく》と同席して平伏《へいふく》せざるは昇進《しょうしん》なり。下落を嫌《きら》わば平民に遠ざかるべし、これを止《と》むる者なし。昇進を願わば華族に交《まじわ》るべし、またこれを妨《さまたぐ》る者なし。これに遠ざかるもこれに交《まじわ》るも、果してその身に何の軽重《けいちょう》を致すべきや。これを是《こ》れ知らずして自《みず》から心を悩《なや》ますは、誤謬《ごびゅう》の甚《はなはだ》しき者というべし。故に有形なる身分の下落《げらく》昇進《しょうしん》に心を関せずして、無形なる士族固有の品行を維持《いじ》せんこと、余輩の懇々《こんこん》企望《きぼう》するところなり。ただこの際において心事の機を転ずること緊要にして、そのこれを転ずるの器械は、特に学校をもって有力なるものとするが故に、ことさらに藩地徳望の士君子《しくんし》に求め、その共《とも》に尽力して学校を盛《さかん》にせんことを願うなり。
 中津の旧藩にて、上下の士族が互に婚姻《こんいん》の好《よしみ》を通《つう》ぜざりしは、藩士社会の一大欠典にして、その弊害《へいがい》はほとんど人心の底に根拠して
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