政府の精神は改進にあること明白なりというべし。然《しから》ばすなわち、いやしくも改進者流をもって自からおる者は、たとい官員にても平人にても、この政府の精神とともに方向をともにし、その改むるところを改め、その進むところに進み、次第に自家の境界を開きて前途に敵なく、ついには、かの守旧家の強きものをも、戦わずして我が境界の内に籠絡《ろうらく》するの勢にいたるべきはずなるに、今日の事実において然らざるは何ぞや。その原因は他なし、この改進者流の人々が、おのおのその地位におりて心情の偏重を制すること能わず、些々《ささ》たる地位の利害に眼《まなこ》をおおわれて事物の判断を誤り、現在の得失に終身の力を用いて、永遠重大の喜憂をかえりみざるによりて然るのみ。
 内閣にしばしば大臣の進退あり、諸省府に時々《じじ》官員の黜陟《ちゅっちょく》あり。いずれも皆、その局に限りてやむをえざるの情実に出でたることならん、珍しからぬことなれば、その得失を評するにも及ばず。余輩がとくにここに論ぜざるべからざるものは、かの改進者流の中にても、もっとも喧《かしま》しき政談家のことなり。この政談家は、政府の内にもあり、また外にもあり。余輩は、その内外を問わず、その人の身分にかかわらず、一般にこれを日本国中一流の人民とみなしてこれを論ぜんと欲するなり。
 政談の中に漸進論《ぜんしんろん》と急進論なるものあれども、あまり分明なる区別にも非ず。いずれにも進の義は免かれず。ただ、その進の方法を論じたるものならん。これをたとえば、飢たる時に物を喰《くら》うは同説なれども、一方は早く喰わんといい、一方は徐々に喰わんというが如し。双方ともに理あり。食物の品柄次第にて、にわかにこれを喰《くら》いて腹を痛むることあり、養生法においてもっとも戒むるところなれば用心せざるべからず。あるいは物の性質により、遠慮なく喰いて害をなさざることもあり、喰いて害なくば颯々《さっさ》と喰うもまた可なり。ゆえに漸進急進の別は方法の細目なれば、余輩は、この論者を同一視して、ひとしくこれを改進者流の人物と認めざるをえず。すなわち、今日、我が国にいて民権を主張する学者と名づくべき人なり。
 民権論は余輩もはなはだもって同説なり。この国はもとより人民の掛り合いにして、しかも金主《きんしゅ》の身分たる者なれば、なんとして国の盛衰をよそに見るべけんや、たしか
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