学者安心論
福沢諭吉

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)店子《たなこ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)地代|小作米《こさくまい》
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   学者安心論

 店子《たなこ》いわく、向長屋《むこうながや》の家主は大量なれども、我が大家《おおや》の如きは古今無類の不通《ふつう》ものなりと。区長いわく、隣村の小前《こまえ》はいずれも従順なれども、我が区内の者はとかくに心得方《こころえかた》よろしからず、と。主人は以前の婢僕《ひぼく》を誉《ほ》め、婢僕は先《せん》の旦那を慕う。ただに主僕の間のみならず、後妻をめとりて先妻を想うの例もあり。親愛尽きはてたる夫婦の間も、遠ざかればまた相想うの情を起すにいたるものならん。されば今、店子と家主と、区長と小前と、その間にさまざまの苦情あれども、その苦情は決して真の情実を写し出したるものに非ず。この店子をして他の家主の支配を受けしめ、この区長を転じて隣村の区長たらしめなば、必ずこれに満足せずして旧を慕うことあるべし。
 而《しこう》してその旧、必ずしも良なるに非ず、その新《しん》、必ずしも悪しきに非ず。ただいたずらに目下の私に煩悶するのみ。けだしそのゆえは何ぞや。直接のために眼光をおおわれて、地位の利害に眩《げん》すればなり。今、世の人心として、人々ただちに相接すれば、必ず他の短《たん》を見て、その長《ちょう》を見ず、己れに求むること軽くして人に求むること多きを常とす。すなわちこれ心情の偏重なるものにして、いかなる英明の士といえども、よくこの弊を免かるる者ははなはだ稀なり。
 あるいは一人と一人との私交なれば、近く接して交情をまっとうするの例もなきに非ざれども、その人、相集まりて種族を成し、この種族と、かの種族と相交わるにいたりては、此彼《しひ》遠く離れて精神を局外に置き遠方より視察するに非ざれば、他の真情を判断して交際を保つこと能わざるべし。たとえば、遠方より望み見れば円き山にても、その山に登れば円き処を見ず、はるかに眺むれば曲りたる野路も、親しくその路《みち》を践《ふ》めば曲るところを覚えざるが如し。直接をもって真の判断を誤るものというべし。かかる弊害は、近日我が邦の政談上においてもおおいに流行するが如し。左にその次第を述べん。
 嘉永《かえい》年中、開国の以来、我が日本はあたか
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