び》は実のるべからず。政府は人民の蔓に生じたる実なり。英の人民にして英の政府あり、仏の人民にして仏の政府あり。然らばすなわち今の日本人民にして今の政府あるは、瓜の蔓に瓜の実のりたるのみ。怪しむに足らざるなり。
 ここに明鏡あらん。美人を写せば美人を反射し、阿多福《おたふく》を写せば阿多福を反射せん。その醜美は鏡によりて生ずるに非ず、実物の持前《もちまえ》なり。人民もし反射の阿多福を見てその厭《いと》うべきを知らば、自から装うて美人たらんことを勉むべし。無智の人民を集めて盛大なる政府を立つるは、子供に着するに大人の衣服をもってするが如し。手足|寛《ゆるやか》にしてかえって不自由、自から裾《すそ》を踏みて倒るることあらん。あるいは身幅《みはば》の適したるものにても、田舎の百姓に手織木綿の綿入れを脱がしめ、これに代るに羽二重《はぶたえ》の小袖をもってすれば、たちまち風を引て噴嚔《くしゃめ》することあらん。
 一国の政治は、いかにもその人民の智愚に適するのみならず、またその性質にも適せざるべからず。然るに論者は性急にして、鏡に対して反射の醜なるを咎《とが》め、瓜に向いて茄子たらざるを怒り、その議論の極意《ごくい》を尋ぬれば、実物にかかわらずして反射の影を美ならしめ、瓜の蔓にも茄子を生ぜしむるの策ありと、公《おおやけ》にこれを口に唱えざれば暗《あん》に自からこれを心の底に許すものの如し。余輩の考にては、この妙策に感服するを得ざるなり。
 然りといえども、また一方より論ずれば、人民の智力発達するにしたがいてその権力を増すもまた当然の理なり。而《しこう》してその智力は権衡《けんこう》もって量《はか》るべきものに非ざれば、その増減を察すること、はなはだ難《かた》し。家厳《かげん》が力をつくして育し得たる令息は、篤実一偏、ただ命《めい》これしたがう、この子は未だ鳥目《ちょうもく》の勘定だも知らずなどと、陽《あらわ》に憂《うれえ》てその実《じつ》は得意話の最中に、若旦那のお払いとて貸座敷より書附《かきつけ》の到来したる例は、世間に珍しからず。
 人の智恵は、善悪にかかわらず、思《おもい》のほかに成長するものなり。油断大敵、用心せざるべからず。ゆえにかの瓜の蔓も、いつの間にかは変性して、やや茄子の木の形をなしたるに、瓜はいぜんとして瓜たることもあらん。あるいは阿多福《おたふく》が思をこら
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