も愛国の念あらん者なれば、私情をさりてこれを考え、心の底にこれを愉快なりと思う者はなかるべし。
なおこれよりも禍《わざわい》の大なるものあり。前すでにいえる如く、我が国内の人心は守旧と改進との二流に分れ、政府は学者とともに改進の一方におり、二流の分界判然として、あたかも敵対の如くなりしかども、改進の人は進みて退かず、難を凌《しの》ぎ危を冒《おか》し、あえて寸鉄に衂《ちぬ》らずしてもって今日の場合にいたりたるは、ただに強勇というべきのみに非ず、これを評して智と称せざるべからず。然るに今|些々《ささ》たる枝葉よりして、改進一流の内にあたかも内乱を起し、自家の戦争に忙わしくして外患をかえりみず、ついにはかの判然たる二流の分界も、さらに混同するのおそれなきに非ず。もとよりこの二流は、はじめより元素を殊にするものなれば、とうてい親和|抱合《ほうごう》すべからざるものと思わるれども、人事|紛紜《ふんうん》の際には思《おもい》のほかなる異像を現出するものなり。近くその一例を示さん。
旧幕府の末年に、天下有志の士と唱うる人物の内には、真に攘夷家もあり、また真に開国家もあり。この開攘《かいじょう》の二家ははじめより元素を殊にする者なれば、理において決して抱合《ほうごう》すべきに非ざれども、当時の事情紛紜に際し、幕府に敵するの目的をもって、暫時《ざんじ》の間、異種の二元素、たがいに相投じたることあり。これを思えば、今の民権論者が不平を鳴らすその間に、識らず知らずしてその分界を踏出し、あるいは他より来りてその界《さかい》を犯し、不平の一点において、かの守旧家と一時の抱合をなすのおそれなしというべからず。理をもって論ずれば、万々心配なきが如くなれども、通常の人は、さまで深謀遠慮なきものなり。
民権論者とて悉皆《しっかい》老成人に非ず。あるいは白面《はくめん》の書生もあらん、あるいは血気の少年もあらん。その成行《なりゆき》決して安心すべからず。万々一もこの二流抱合の萌《きざし》を現わすことあらば、文明の却歩《きゃくほ》は識者をまたずして知るべし。これすなわち禍の大なるものなり。国の文明を進めんとしてかえってこれを妨ぐるは、愛国者の不面目これよりはなはだしきはなかるべし。
論者つねにいわずや、一国の政府は人民の反射なりと。この言、まことに是《ぜ》なり。瓜《うり》の蔓《つる》に茄子《なす
前へ
次へ
全15ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
福沢 諭吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング