して容《かたち》を装《よそお》うたるに、有心《うしん》の鏡はその装《よそおい》を写さずして、旧《もと》の醜容を反射することあらば、阿多福もまた不平ならざるをえず。また、政府は人民の反射なりというといえども、その反射は必ずしも今日の実物を今日に反射するに非ず。人心変動の沿革にしたがいて、その大勢の真形を反射せざるべからず。あるいはまた、その反射するにあたりて、実物のこの一方に対しては真形を写すべけれども、かの一方の真をば写すべからざることもあらん。然るときは、その二物の軽重緩急を察して、まず重大にして急なるものを写さざるべからず。
 されば今の日本政府も、何等の大勢を写し出すものか、何物の真形を反射するものか、これを反射して真を誤らざるものか、無偏無党の平心をもってこれを察するは至難の事というべし。また、事を施行するにあたりて、その成跡《せいせき》はつねに意外に出で、求むるものを得ずして求めざるものを得ること多し。
 数年前英国にて下院を改革し、下等の人民までも議院の事に参与するの法を定めたりしに、その時にあたりて識者の考に、今後議院の権は役夫《えきふ》・職人の手に帰し、あるいは害あるべしといい、あるいは益あるべしといい、議論|喋々《ちょうちょう》たりしが、その成跡を見れば、いずれも無益の取越し苦労なり。改革の後も役夫・職人の輩《はい》はただちに国事にかかわることなく、議員の種族はいぜんたる旧《もと》の議員にして、ただこの改革ありしがために、早くすでに議員に戒心を抱かしめ、期せずしておのずから下等の人民を利したりという。
 ゆえに政府たる者が人民の権を認むると否とに際して、その加減の難きは、医師の匕《さじ》の類《たぐい》に非ず、これを想い、またこれを思い、ただに三思のみならず、三百思もなお足るべからずといえども、その細目の適宜を得んとするは、とうてい人智の及ぶところに非ざれば、大体の定則として政府と人民と相分れ、直接の関係をやめて間接に相交わるの一法あるのみ。
 人あるいはこの説を聞き、政府と人民と相遠ざかることあらば、気脈を通ぜずして、必ず不和を生ぜんという者あるべしといえども、ひっきょう、未だ思わざるの論のみ。余輩のいわゆる遠ざかるとは、たがいに遠隔して敵視するをいうに非ず、また敬《けい》してこれを遠ざくるの義にも非ず。遠ざかるは近づくの術なり、離るるは合するの方
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