なれども、一には叱られ一には慰めらるるとはそもそも何故《なにゆえ》なるか。畢竟《ひっきょう》親の方にては格別深き考えもあらず、ただ一時の情意に発したるものなるべし。その第一例なる衣裳を汚したる方は、何ほどか母に面倒を掛けあるいは損害を蒙《こうむ》らしむることあれば、憤怒《ふんぬ》の情に堪えかねて前後の考えもなく覚えず知らず叱り附くることならん。また第二の方は、さまで面倒もなく損害もなき故、何となく子供の痛みを憐れみ、かつは泣声の喧《やかま》しきを厭《いと》い、これを避けんがために過ちを柱に帰して暫《しばら》くこれを慰むることならんといえども、父母のすることなすことは、善きも悪《あ》しきも皆一々子供の手本となり教えとなることなれば、縦令《たとい》父母には深き考えなきにもせよ、よくよくその係り合いを尋ぬれば、一は怒りの情に堪えきらざる手本になり、一は誤りを他に被《かぶ》せて自ら省みず、むやみに復讐の気合いを教え込むものにて、至極有り難からぬ教育なり。そのほか叱るべきことあるも父母の気向《きむき》次第にて、機嫌の善き時なればかえってこれを賞《ほ》め、機嫌|悪《あ》しければあるいはこれを叱る等
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