教育の良否によって定まることなり。就中《なかんずく》幼少の時、見習い聞き覚えて習慣となりたることは、深く染み込めて容易に矯《た》め直しの出来ぬものなり。さればこそ習慣は第二の天性を成すといい、幼稚の性質は百歳までともいう程のことにて、真《まこと》に人の賢不肖《けんふしょう》は、父母家庭の教育次第なりというも可なり。家庭の教育、謹《つつし》むべきなり。
然《しか》るに今、この大切なる仕事を引受けたる世間の父母を見るに、かつて子を家庭に教育するの道を稽古したることなく、甚だしきは家庭教育の大切なることだに知らずして甚だ容易なるものと心得、毎《つね》に心の向き次第、その時その時の出任せにて所置《しょち》するもの多きが如し。今その最も普通なる実例の一、二を示さんに、子供が誤って溝中《みぞなか》に落込み着物を汚すことあれば、厳しくその子を叱ることあり。もしまた誤って柱に行き当り額《ひたい》に瘤《こぶ》を出して泣き出すことあれば、これを叱らずしてかえって過ちを柱に帰し、柱を打ち叩きて子供を慰むることあり。さてこの二つの場合において、子供の方にてはいずれも自身の誤りなれば頓《とん》と区別はなきこと
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