かりではありません。其周囲に居合せた人で、一人だッて涙を浮べない者はありませんでした。
『……兄さん、何様《どんな》事があったッて、死んじゃいやですよ。お国には、』と、また泣饒舌をなさる声が聞えたのです。
『もう可い、何も云わない方が可い、お前には実に困る。彼方へ行ってお呉れ。』
『余り醇いわ、兄さんは。』
『私は軍人だよ。』
『だけども、徴兵で為方《しかた》がなしになった軍人よ。月給を貰って妻子を養ってる、軍人とは違うんでしょう。貴方は家の相続人ですわ。お国には阿母さんが唯《た》ッた一人、兄さんを楽しみにして待ってらッしゃるでしょう。仙台は仙台で、三歳になる子まである嫂さんがあるでしょう。それだのに、兄さんが万一、』
『ええ、聞く耳が無い。』と、其の兄さんはつと体を退《ひ》いて、向側の窓の方に腰を卸してお了いでした。
『兄さん兄さん。』と、窓につかまって伸上り伸上りして、『国の為ッ国の為ッて、親も子も妻も餓死んでも、兄さんは兄さんは兄さんは……無理に殺しに連れてかれる人もないわ。阿母さんや嫂さんの事を思って頂戴よ。えッえッえッ。』
『此所にも軍人はいくらも居るよ』
 窓の近くに居た兵
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