なかッたんだから……。吉里さん、私しゃ今朝のように嬉しいことはない。私しゃ花魁買いということを知ッたのは、お前さんとこが始めてなんだ。私しは他の楼《うち》の味は知らない。遊び納めもまたお前さんのとこなんだ。その間《うち》にはいろいろなことを考えたこともあッた、馬鹿なことを考えたこともあッた、いろいろなことを思ッたこともあッたが、もう今――明日はどうなるんだか自分の身の置場にも迷ッてる今になッて、今朝になッて……。吉里さん、私しゃ何とも言えない心持になッて来た」と、善吉は話すうちにたえず涙を拭いて、打ち出した心には何の見得もないらしかッた。
吉里は平田と善吉のことが、別々に考えられたり、混和《いりまじ》ッて考えられたりする。もう平田に会えないと考えると心細さはひとしおである。平田がよんどころない事情とは言いながら、何とか自分をしてくれる気があッたら、何とかしてくれることが出来たりそうなものとも考える傍から、善吉の今の境界《きょうがい》が、いかにも哀れに気の毒に考えられる。それも自分ゆえであると、善吉の真情《まごころ》が恐ろしいほど身に染《し》む傍から、平田が恋しくて恋しくてたまらなくなッて来る。善吉も今日ッきり来ないものであると聞いては、これほど実情《じつ》のある人を、何であんなに冷遇《わる》くしたろう、実に悪いことをしたと、大罪を犯したような気がする。善吉の女房の可哀そうなのが身につまされて、平田に捨てられた自分のはかなさもまたひとしおになッて来る。それで、たまらなく平田が恋しくなッて、善吉が気の毒になッて、心細くなッて、自分がはかなまれて沈んで行くように頭がしんとなって、耳には善吉の言葉が一々よく聞え、善吉の泣いているのもよく見え、たまらなく悲しくなッて来て、ついに泣き出さずにはいられなかッた。
顔に袖を当てて泣く吉里を見ている善吉は夢現《ゆめうつつ》の界《さかい》もわからなくなり、茫然として涙はかえッて出なくなッた。
「善さん、勘忍して下さいよ。実に済みませんでした」と、吉里はようやく顔を上げて、涙の目に善吉を見つめた。
善吉は吉里からこの語《ことば》を聞こうとは思いがけぬので、返辞もし得ないで、ただ見つめているのみである。
「それでね、善さん、お前さんどうなさるんですよ」と、吉里は気遣わしげに問《たず》ねた。
「どうッて。私しゃどうともまだ決心《きめ》ていないんです。横浜の親類へ行ッて世話になッて、どんなに身を落しても、も一度美濃善の暖簾《のれん》を揚げたいと思ッてるんだが、親類と言ッたッて、世話してくれるものか、くれないものか、それもわからないのだから、横浜《はま》へ進んで行く気もしないんで……」と、善吉はしばらく考え、「どうなるんだか、自分ながらわからないんだから……」と、青い顔をして、ぶる[#「ぶる」に傍点]ッと戦慄《ふるえ》て、吉里に酒を注いでもらい、続けて三杯まで飲んだ。
吉里はじッと考えている。
「吉里さん、頼みがあるんですが」と、善吉は懐裡《ふところ》の紙入れを火鉢の縁に置き、「お前さんに笑われるかも知れないが、私しゃね、何だか去《かえ》るのが否《いや》になッたから、今日は夕刻《ゆうかた》まで遊ばせておいて下さいな。紙入れに五円ばかり入ッている。それが私しの今の身性《しんしょう》残らずなんだ。昨夜《ゆうべ》の勘定を済まして、今日一日遊ばれるかしら。遊ばれるだけにして、どうか置いて下さい。一文も残らないでもいい。今晩どッかへ泊るのに、三十銭か四十銭も残れば結構だが……。何、残らないでもいい。ねえ、吉里さん、そうしといて下さいな」と、善吉は顔を少し赧《あか》めながらしかも思い入ッた体《てい》である。
「よござんすよ」と、吉里は軽《かろ》く受けて、「遊んでいて下さいよ。勘定なんか心配しないで、今晩も遊んでいて下さいよ。これはよござんすよ」と、善吉の紙入れを押し戻した。
「それはいけない。それはいけない。どうか預かッておいて下さい」
吉里はじッと善吉を見ている。その眼は物を言うかのごとく見えた。善吉は紙入れに手を掛けながら、自分でもわからないような気がしている。
「善さん、私しに委《まか》せておおきなさい、悪いようにゃしませんよ。よござんすからね、そのお金はお前さんの小遣いにしておおきなさい。多寡が私しなんぞのことですから、お前さんの相談相手にはなれますまいが、出来るだけのことはきッとしますよ。よござんすか。気を落さないようにして下さいよ。またお前さんの小遣いぐらいは、どうにでもなりますからね、気を落さないように、よござんすか」
善吉は何で吉里がこんなことを言ッてくれるのかわからぬ。わからぬながら嬉しくてたまらぬ。嬉しい中に危ぶまれるような気がして、虚情《うそ》か実情《まこと》か虚実の界《さかい》に迷いながら吉里の顔を見ると、どう見ても以前の吉里に見えぬ。眼の中に実情《まごころ》が見えるようで、どうしても虚情《うそ》とは思われぬ。小遣いにせよと言われたその紙入れを握ッている自分の手は、虚情《うそ》でない証拠をつかんでいるのだ。どうしてこんなことになッたのか。と、わからないながらに嬉しくてたまらず、いつか明日《あした》のわが身も忘れてしまッていた。
「善さん、私もね、本統に頼りがないんですから」と、吉里ははらはらと涙を零《こぼ》して、「これから頼りになッておくんなさいよ」と、善吉を見つめた時、平田のことがいろいろな方から電光のごとく心に閃《ひら》めいた。吉里は全身《みうち》がぶる[#「ぶる」に傍点]ッと顫えて、自分にもわからないような気がした。
善吉はただ夢の中をたどッている。ただ吉里の顔を見つめているのみであッたが、やがて涙は頬を流れて、それを拭く心もつかないでいた。
「吉里さん」と、廊下から声をかけたのは小万である。
「小万さん、まアお入りな」
「どなたかおいでなさるんじゃアないかね」と、小万は障子を開けて、「おや、善さん。お楽しみですね」
小万の言葉は吉里にも善吉にも意味あるらしく聞えた。それは迎えて意味あるものとして聞いたので、吉里は何も言いたくないような心持がした。善吉は言う術《すべ》を失ッて黙ッていた。
二人とも返辞をしないのを、小万も妙に感じたので、これも無言。三人とも何となくきまりが悪く、白《しら》け渡ッた。
「小万さん、小万さん」と、遠くから呼んだ者がある。
見ると向う廊下の東雲《しののめ》の室の障子が開いていて、中から手招ぎする者がある。それは東雲の客の吉《きッ》さんというので、小万も一座があッて、戯言《じょうだん》をも言い合うほどの知合いである。
「吉里さん、後刻《のち》に遊びにおいでよ」と、小万は言い捨てて障子をしめて、東雲の座敷へ急いで行ッてしまった。
その日の夜になッても善吉は帰らなかッた。
夜の十一時ごろに西宮が来た。吉里は小万の室へ行き、平田が今夜の八時三十分の汽車で出発《しゅッたつ》したことを聞いて、また西宮が持て余すほど泣いた。西宮が自分一人面白そうに遊んでもいられないと、止めるのを振り切ッて、一時ごろ帰ッた時まで傍にいて、愚痴の限りを尽した。
善吉は次の日も流連《いつづけ》をした。その次の日も去《かえ》らず、四日目の朝ようやく去《かえ》ッた。それは吉里が止めておいたので、平田が別離《わかれ》に残しておいた十円の金は、善吉のために残りなく費《つか》い尽し、その上一二枚の衣服《きもの》までお熊の目を忍んで典《あず》けたのであッた。
それから後、多くは吉里が呼んで、三日にあげず善吉は来ていた。十二月の十日ごろまでは来たが、その後は登楼《あがる》ことがなくなり、時々|耄碌頭巾《もうろくずきん》を冠《かぶ》ッて忍んで店まで逢いに来るようになッた。田甫《たんぼ》に向いている吉里の室の窓の下に、鉄漿溝《おはぐろどぶ》を隔てて善吉が立ッているのを見かけた者もあッた。
十
午時《ひる》過ぎて二三時、昨夜《ゆうべ》の垢《あか》を流浄《おとし》て、今夜の玉と磨《みが》くべき湯の時刻にもなッた。
おのおの思い思いのめかし[#「めかし」に傍点]道具を持参して、早や流しには三五人の裸美人《らびじん》が陣取ッていた。
浮世風呂に浮世の垢を流し合うように、別世界は別世界相応の話柄《はなし》の種も尽きぬものか、朋輩《ほうばい》の悪評《わるくち》が手始めで、内所の後評《かげぐち》、廓内《くるわ》の評判、検査場で見た他楼《よそ》の花魁の美醜《よしあし》、検査医の男振りまで評し尽して、後連《あとれん》とさし代われば、さし代ッたなりに同じ話柄《はなし》の種類の異《かわ》ッたのが、後からも後からも出て来て、未来|永劫《えいごう》尽きる期がないらしく見えた。
「いよいよ明日が煤払《すすは》きだッてね。お正月と言ッたッて、もう十日ッきゃアないのに、どうしたらいいんだか、本統に困ッちまうよ」
「どうせ、もうしようがありゃアしないよ。頼まれるような客は来てくれないしさ、どうなるものかね。その時ゃその時で、どうかこうか追ッつけとくのさ」
「追ッつけられりゃ、誰だッて追ッつけたいのさ。私なんざそれが出来ないんだから、実に苦労でしようがないよ。お正月なんざ、本統に来なくッてもいいもんだね」
「千鳥さんはそんなことを言ッたッて、蠣殻町《こめやまち》のあの人がどうでもしておくれだから、何も心配しなくッてもいいじゃアないかね」
「どうしてどうして、そんなわけに行くものかね。大風呂敷ばッかし広げていて、まさかの時になると、いつでも逃げ出して二月ぐらい寄りつきもしないよ。あんなやつアありゃしないよ」
「私しなんか、三カ日のうちにお客の的《あて》がまだ一人もないんだもの、本統にくさくさしッちまうよ」
「二日の日だけでもいいんだけれど、三日でなくッちゃア来られないと言うしさ。それもまだ本統に極まらないんだよ」
「小万さんは三日とも西宮さんで、七草も西宮さんで、十五日もそうだっさ。あんなお客が一人ありゃア暮の心配もいりゃアしないし、小万さんは実に羨ましいよ」
「西宮さんと言やア、あの人とよく一しょに来た平田さんは、好男子《いいおとこ》だッたッけね」
「名山さん、お前|岡惚《おかぼ》れしておいでだッたね」
「虚言《うそ》ばッかし。ありゃ初緑さんだよ」
「吉里さんは死ぬほど惚れていたんだね」
「そうだろうさ。あの善さんたア比較物《くらべもの》にもなりゃしないもの」
「どうして善さんを吉里さんは情夫《いいひと》にしたんだろうね。最初は、気の毒になるほど冷遇《いやが》ッてたじゃアないかね」
「それがよくなったんだろうさ」
「吉里さんは浮気だもの」
「だッて、浮気で惚れられるような善さんでもないよ」
「そんなことはどうでもよいけれども、吉里さんのような人はないよ。今晩返すからとお言いだから、先月の、そうさ、二十七日の日にお金を二円貸したんだよ。いまだに返金《かえさ》ないんだもの。あんな義理を知らない人ッちゃアありゃアしないよ」
「千鳥さん、お前もお貸しかい。私もね、白縮緬の帯とね、お金を五十銭借りられて、やッぱしそれッきりさ。帯がないから、店を張るのに、どんなに外見《きまり》が悪いだろう。返す返すッて、もう十五日からになるよ」
「名山さん、私しのなんかもひどいじゃアないかね。お客から預かッていた指環を借りられたんだよ。明日の朝までとお言いだから貸してやッたら、それッきり返さないのさ。お客からは責められるし、吉里さんは返してくれないし、私しゃこんなに困ッたことはないよ。今朝催促したら、明日まで待ッてくれろッてお言いだから、待ッてやることは待ッてやったけれども、吉里さんのことだから怪しいもんさ」
「二階の花魁で、借りられない者はあるまいよ。三階で五人、階下《した》にも三人あるよ。先日《こないだ》出勤した八千代さんからまで借りてるんだもの。あんな小供のような者まで欺《だま》すとは、あんまりじゃアないかね」
「だから、だんだん交際人《つきあいて》がなくなるんさ。平田さんが来る時分には、あんなに仲よくしてい
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