きの猪口を飲み乾し、手酌でまた一杯飲み乾し、杯泉でよく洗ッて、「さア献《あ》げるよ。今日ッきりなんだ。いいかね、器用に受けて下さい」
吉里は猪口を受けて一口飲んで、火鉢の端に置いて、じっと善吉を見つめた。
吉里は平田に再び会いがたいのを知りつつ別離《わかれ》たのは、死ぬよりも辛い――死んでも別離《わかれ》る気はなかッたのである。けれども、西宮が実情《まこと》ある言葉、平田が四苦八苦の胸の中、その情に迫られてしかたなしに承知はした。承知はしたけれども、心は平田とともに平田の故郷《くに》に行くつもりなのである――行ッたつもりなのである。けれども、別離《わかれ》て見れば、一しょに行ッたはずの心にすぐその人が恋しく懐愛《なつか》しくなる。も一度逢うことは出来まいか。あの人車《くるま》を引っ返させたい。逢ッて、も一度|別離《わかれ》を告げたい。まだ言い残したこともあッた。聞き残したこともあッた。もうどうしても逢われないのか。今夜の出発が延ばされないものか。延びるような気がする。も一度逢いに来てくれるような気がする。きッと逢いに来る。いえ、逢いには来まい。今夜ぜひ夜汽車で出発《たッてゆ》く人が来そうなことがない。きッと来まい。汽車が出なければいい。出ないかも知れぬ。出ないような気がする。きッと出ない。私の念《おも》いばかりでもきッと出さない。それでも意地悪く出たらどうしよう。どうしても逢えないのか。逢えなけりゃどうしたらいいだろう。平田さんに別れるくらいなら――死んでも別れないんだ。平田さんと別れちゃ生きてる甲斐がない。死んでも平田さんと夫婦《いっしょ》にならないじゃおかない。自由にならない身の上だし、自由に行かれない身の上だし、心ばかりは平田さんの傍を放れない。一しょにいるつもりだ。一しょに行くつもりだ。一しょに行ッてるんだ。どんなことがあッても平田さんの傍は放れない。平田さんと別れて、どうしてこうしていられるものか。体は吉原にいても、心は岡山の平田さんの傍にいるんだ。と、同じような考えが胸に往来して、いつまでも果てしがない。その考えは平田の傍に行ッているはずの心がしているので、今朝送り出した真際《まぎわ》は一時に迫って、妄想《もうぞう》の転変が至極|迅速《すみやか》であッたが、落ちつくにつれて、一事についての妄想が長くかつ深くなッて来た。
思案に沈んでいると、いろいろなことが現在になッて見える。自分の様子、自分の姿、自分の妄想がことごとく現在となッて、自分の心に見える。今朝の別離《わかれ》の辛さに、平田の帯を押えて伏し沈んでいたのも見える。わる止めせずともと東雲《しののめ》の室《へや》で二上り新内を唄《うた》ッたのも、今耳に聞いているようである。店に送り出した時はまるで夢のようで、その時自分は何と思ッていたのか。あのこともあのことも、あれもこれも言いたかッたのに、何で自分は言うことが出来なかッたのか。いえ、言うことの出来なかッたのが当然《あたりまえ》であッた。ああ、もうあの車を止めることは出来ぬか。悲しくてたまらなくなッて、駈け出して裏梯子を上ッて、座敷へ来て泣き倒れた自分の姿が意気地なさそうにも、道理《もっとも》らしくも見える。万一を希望していた通り、その日の夜になッたら平田が来て、故郷《くに》へ帰らなくともよいようになッたと、嬉しいことばかりを言う。それを聞く嬉しさ、身も浮くばかりに思う傍から、何奴《なにやつ》かがそれを打ち消す、平田はいよいよ出発したがと、信切な西宮がいつか自分と差向いになッて慰めてくれる。音信《たより》も出来ないはずの音信が来て、初めから終《しま》いまで自分を思ッてくれることが書いてあッて、必ずお前を迎えるようにするからと、いつもの平田の書振りそのままの文字が一字一字読み下されるように見えて来る。かと思うと、自分はいつか岡山へ行ッていて、思ッたよりも市中が繁華で、平田の家も門構えの立派な家で、自分のかねて思ッていたような間取りで、庭もあれば二階もあり蔵もある。家君《おとッ》さんは平田に似て、それで柔和で、どこか気抜けがしているようにも見え、自分を見てどこから来たかと言いたそうな顔をしていて、平田から仔細《しさい》を聞いて、急に喜び出して大層自分を可愛がッてくれる。弟《おとと》も妹《いもと》も平田から聞いていた年ごろで、顔つき格向《かっこう》もかねて想像していた通りで、二人ともいかにも可愛らしい。妹の方が少し意地悪ではないかと思ッていたことまでそのままで、これが少し気に喰わないけれども、姉さん姉さんと慕ッてくれて、東京風に髪を結ッてくれろなどと言うところは、またなかなか愛くるしくも思われる。かねて平田に写真を見せてもらッて、その顔を知ッている死去《なくな》ッたお母《ッか》さんも時々顔を出す。これがまた優しくしてくれて、お母さんがいたなら、お前を故郷《くに》へ連れて行くと、どんなに可愛がって下さるだろうと、平田の寝物語に聞いていた通り可愛がッてくれるかと思うと、平田の許嫁《いいなずけ》の娘というのが働いていて、その顔はかねて仲の悪い楼内《うち》の花子という花魁そのままで、可愛らしいような憎らしいような、どうしても憎らしい女で、平田が故郷《くに》へ帰ッたのはこの娘と婚礼するためであッたことも知れて来た。やッぱりそうだッた、私しゃ欺《だま》されたのだと思うと、悲しい中にまた悲しくなッて涙が止らなくなッて来る。西宮さんがそんな虚言《うそ》を言う人ではないと思い返すと、小万と二人で自分をいろいろ慰めてくれて、小万と姉妹《きょうだい》の約束をして、小万が西宮の妻君になると自分もそこに同居して、平田が故郷《くに》の方の仕法《ほう》がついて出京したら、二夫婦揃ッて隣同士家を持ッて、いつまでも親類になッて、互いに力になり合おうと相談もしている。それも夢のように消えて、自分一人になると、自由《まま》にならぬ方の考えばかり起ッて来て、自分はどうしても此楼《ここ》に来年の四月まではいなければならぬか。平田さんに別れて、他に楽しみもなくッて、何で四月までこんな真似がしていられるものか。他の花魁のように、すぐ後に頼りになる人が出来そうなことはなし、頼みにするのは西宮さんと小万さんばかりだ。その小万さんは実に羨ましい。これからいつも見せられてばかりいるのか。なぜ平田さんがあんなことになッたんだろう。も一度平田さんが来てくれるようには出来ないのか。これから毎日毎日いやな思いばかりするのかと思いながら、善吉が自分の前に酒を飲んでいる、その一挙一動がことごとく眼に見えていて、これがその人であッたならと、覚えず溜息も吐《つ》かれるのである。
吉里は悲しくもあり、情なくもあり、口惜《くや》しくもあり、はかなくも思うのである。詰まるところは、頼りないのが第一で、どうしても平田を忘れることが出来ないのだ。
今日限りである、今朝が別れであると言ッた善吉の言葉は、吉里の心に妙にはかなく情なく感じて、何だか胸を圧《おさ》えられるようだ。
冷遇《ふッ》て冷遇て冷遇《ふり》抜いている客がすぐ前の楼《うち》へ登《あが》ッても、他の花魁に見立て替えをされても、冷遇《ふッ》ていれば結局《けッく》喜ぶべきであるのに、外聞の意地ばかりでなく、真心《しんしん》修羅《しゅら》を焚《もや》すのは遊女の常情《つね》である。吉里も善吉を冷遇《ふッ》てはいた。しかし、憎むべきところのない男である。善吉が吉里を慕う情の深かッただけ、平田という男のあッたためにうるさかッたのである。金に動く新造《しんぞ》のお熊が、善吉のために多少吉里の意に逆らッたのは、吉里をして心よりもなお強く善吉を冷遇《ふら》しめたのである。何だか知らぬけれども、いやでならなかッたのである。別離《わかれ》ということについて、吉里が深く人生の無常を感じた今、善吉の口からその言葉の繰り返されたのは、妙に胸を刺されるような心持がした。
吉里は善吉の盃を受け、しばらく考えていたが、やがて快く飲み乾し、「善さん、御返杯ですよ」と、善吉へ猪口を与え、「お酌をさせていただきましょうね」と、箪笥を放れて酌をした。
善吉は眼を丸くし、吉里を見つめたまま言葉も出でず、猪口を持つ手が戦《ふる》え出した。
九
「善さん、も一つ頂戴しようじゃアありませんか」と、吉里はわざとながらにッこり笑ッた。
善吉はしばらく言うところを知らなかッた。
「吉里さん、献《あ》げるよ、献げるよ、私しゃこれでもうたくさんだ。もう思い残すこともないんだ」と、善吉は猪口を出す手が戦《ふる》えて、眼を含涙《うるま》している。
「どうなすッたんですよ。今日ッきりだとか、今日が別れだとか、そんないやなことをお言いなさらないで、末長く来て下さいよ。ね、善さん」
「え、何を言ッてるんだね。吉里さん、お前さん本気で……。ははははは。串戯《じょうだん》を言ッて、私をからか[#「からか」に傍点]ッたッて……」
「ほほほほ」と、吉里も淋《さみ》しく笑い、「今日ッきりだなんぞッて、そんなことをお言いなさらないで、これまで通り来ておくんなさいよ」
善吉は深く息を吐《つ》いて、涙をはらはらと零《こぼ》した。吉里はじッと善吉を見つめた。
「私しゃ今日ッきり来られないんだ。吉里さん、実に今日がお別れなんです」と、善吉は猪口を一息に飲み乾し、じッとうつむいて下唇を噛んだ。
「そんなことをお言いなさッて、本統なんですか。どッか遠方《とおく》へでもおいでなさるんですか」
「なアに、遠方《とおく》へ行くんだか、どこへ行くんだか、私にも分らないんですがね……」と、またじッと考えている。
「何ですよ。なぜそんな心細いことをお言いなさるんですよ」と、吉里の声もやや沈んで来た。
「心細いと言やア吉里さん」と、善吉は鼻を啜《すす》ッて、「私しゃもう東京にもいられなければ、どこにもいられなくなッたんです。私も美濃屋善吉――富沢町で美濃善と言ッちゃア、ちッたア人にも知られた店ももッていたんだが……。お熊どんは二三度来てくれたこともあッたから知ッていよう、三四人の奉公人も使ッていたんだが、わずか一年|過《た》つか過たない内に――花魁のところに来初めてからちょうど一年ぐらいになるだろうね――店は失《な》くなすし、家は他人《ひと》の物になッてしまうし、はははは、私しゃ宿なしになッちまッたんだ」
「えッ」と、吉里はびッくりしたが、「ほほほほ、戯言《じょうだん》お言いなさんな。そんなことがあるもんですか」
「戯言だ。私も戯言にしたいんだ」
善吉の様子に戯言らしいところはなく、眼には涙を一杯もッて、膝をつかんだ拳《こぶし》は顫えている。
「善さん、本統なんですか」
「私が意気地なしだから……」と、善吉はその上を言い得ないで、頬が顫えて、上唇もなお顫えていた。
冷遇《ふり》ながら産を破らせ家をも失わしめたかと思うと、吉里は空恐ろしくなッて、全身《みうち》の血が冷え渡ッたようで、しかも動悸《どうき》のみ高くしている。
「お神さんはどうなすッたんです」と、ややあって問《たず》ねた吉里の声も顫えた。
「嚊《かかア》かね」と、善吉はしばらく黙して、「宿なしになッちあア、夫婦揃ッて乞食《こじき》にもなれないから、生家《さと》へ返してしまッたんだがね……。ははははは」と、善吉は笑いながら涙を拭いた。
「まアお可哀そうに」と、吉里もうつむいて歎息《たんそく》する。
「だがね、吉里さん、私しゃもうこれでいいんだ。お前さんとこうして――今朝こうして酌をしてもらッて、快《い》い心持に酔ッて去《かえ》りゃ、もう未練は残らない。昨夜《ゆうべ》の様子じゃ、顔も見せちゃアもらえまいと思ッて、お前さんに目ッかッたら怒られたかも知れないが、よそながらでも、せめては顔だけでもと思ッて、小万さんの座敷も覗《のぞ》きに行ッた。平田さんとかいう人を送り出しにおいでの時も、私しゃ覗いていたんだ。もう今日ッきり来られないのだから、お前さんの優しい言葉の一語《ひとつ》も……。今朝こうしてお前さんと酒を飲むことが出来ようとは思わ
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