るのが見える、風を引きはせぬかと気遣《きづか》われるほど意気地のない布団の被《か》けざまをして。
行燈はすでに消えて、窓の障子はほのぼのと明るくなッている。千住《せんじゅ》の製絨所《せいじゅうしょ》か鐘《かね》が淵《ふち》紡績会社かの汽笛がはるかに聞えて、上野の明け六時《むつ》の鐘も撞《う》ち始めた。
「善さん、しッかりなさいよ、お紙入れなんかお忘れなすッて」と、お熊が笑いながら出した紙入れを、善吉は苦笑いをしながら胸もあらわな寝衣《ねまき》の懐裡《ふところ》へ押し込んだ。
「ちッとお臥《よ》るがよござんすよ」
「もう夜が……明るくなッてるんだね」
「なにあなた、まだ六時ですよ。八時ごろまでお臥ッて、一口召し上ッて、それからお帰んなさるがよござんすよ」
「そう」と、善吉はなお突ッ立ッている。
「花魁、花魁」と、お熊は吉里へ声をかけたが、返辞もしなければ身動きもせぬ。
「しようがないね。善さん、早くお臥《やす》みなさいまし。八時になッたらお起し申しますよ」
善吉がもすこしいてもらいたかッたお熊は室を出て行ッた。
室の障子を開けるのが方々に聞え、梯子を上り下りする草履の音も多くなッた。馴染みの客を送り出して、その噂《うわさ》をしているのもあれば、初会の客に別れを惜しがッて、またの逢夜《おうや》を約《ちぎ》ッているのもある。夜はいよいよ明け放れた。
善吉は一層気が忙《せわ》しくなッて、寝たくはあり、妙な心持はする、機会を失なッて、まじまじと吉里の寝姿を眺《なが》めていた。
朝の寒さはひとしおである。西向きの吉里が室の寒さは耐えられぬほどである。吉里は二ツ三ツ続けて嚏《くさめ》をした。
「風を引くよ」と、善吉はわれを覚えず吉里の枕もとに近づき、「こんなことをしてるんだもの、寒いはずだ。私が着せてあげよう。おい、吉里さん。吉里さん、風を引くよ」
吉里は袖を顔に当てて俯伏《つッぷ》し、眠《ね》てるのか眠てないのか、声をかけても返辞をせぬところを見ると、眠てるのであろうと思ッて、善吉はじッと見下した。
雪よりも白い領《えり》の美くしさ。ぽうッとしかも白粉《しろこ》を吹いたような耳朶《みみたぶ》の愛らしさ。匂うがごとき揉上《もみあ》げは充血《あか》くなッた頬に乱れかかッている。袖は涙に濡《ぬ》れて、白茶地に牛房縞《ごぼうじま》の裏柳葉色《うらやなぎはいろ》を曇らせている。島田|髷《まげ》はまったく根が抜け、藤紫《ふじむらさき》のなまこ[#「なまこ」に傍点]の半掛けは脱《はず》れて、枕は不用《いらぬ》もののように突き出されていた。
善吉はややしばらく瞬《またた》きもせず吉里を見つめた。
長鳴《ちょうめい》するがごとき上野の汽車の汽笛は鳴り始めた。
「お、汽車だ。もう汽車が出るんだな」と、善吉はなお吉里の寝顔を見つめながら言ッた。
「どうしようねえ。もう汽車が出るんだよ」と、泣き声は吉里の口から漏れて、つと立ち上ッて窓の障子を開けた。朝風は颯《さッ》と吹き込んで、びッくりしていた善吉は縮み上ッた。
七
忍《しのぶ》が岡《おか》と太郎|稲荷《いなり》の森の梢には朝陽《あさひ》が際立ッて映《あた》ッている。入谷《いりや》はなお半分|靄《もや》に包まれ、吉原|田甫《たんぼ》は一面の霜である。空には一群一群の小鳥が輪を作ッて南の方へ飛んで行き、上野の森には烏《からす》が噪《さわ》ぎ始めた。大鷲《おおとり》神社の傍の田甫の白鷺《しらさぎ》が、一羽|起《た》ち二羽起ち三羽立つと、明日の酉《とり》の市《まち》の売場に新らしく掛けた小屋から二三|個《にん》の人が現われた。鉄漿溝《おはぐろどぶ》は泡《あわ》立ッたまま凍ッて、大音寺前の温泉の煙《けむ》は風に狂いながら流れている。
一声《いっせい》の汽笛が高く長く尻を引いて動き出した上野の一番汽車は、見る見るうちに岡の裾を繞《めぐ》ッて、根岸に入ッたかと思うと、天王寺の森にその煙も見えなくなッた。
窓の鉄棒を袖口を添えて両手に握り、夢現《ゆめうつつ》の界《さかい》に汽車を見送ッていた吉里は、すでに煙が見えなくなッても、なお瞬きもせずに見送ッていた。
「ああ、もう行ッてしまッた」と、呟《つぶ》やくように言ッた吉里の声は顫えた。
まだ温気《あたたかみ》を含まぬ朝風は頬に※[#「石+乏」、第3水準1−88−93]《はり》するばかりである。窓に顔を晒《さら》している吉里よりも、その後に立ッていた善吉は戦《ふる》え上ッて、今は耐えられなくなッた。
「風を引くよ、吉里さん。寒いじゃアないかね、閉めちゃアどうだね」と、善吉は歯の根も合わないで言ッた。
見返ッた吉里は始めて善吉を認めて、「おや、善さんでしたか」
「閉めたらいいだろう。吉里さん、風を引くよ。顔の色が真青だよ」
「あの汽車はどこへ行くんでしょうね」
「今の汽車かね。青森まで行かなきゃ、仙台で止るんだろう」
「仙台。神戸にはいつごろ着くんでしょう」
「神戸に。それは、新橋の汽車でなくッちゃア。まるで方角違いだ」
「そう。そうだ新橋だッたんだよ」と、吉里はうつむいて、「今晩の新橋の夜汽車だッたッけ」
吉里は次の間の長火鉢の傍に坐ッて、箪笥《たんす》にもたれて考え始めた。善吉は窓の障子を閉めて、吉里と火鉢を挾んで坐り、寒そうに懐手をしている。
洗い物をして来たお熊は、室の内に入りながら、「おや、もうお起きなすッたんですか。もすこしお臥《よ》ッてらッしゃればいいのに」と、持ッて来た茶碗《ちゃわん》小皿などを茶棚《ちゃだな》へしまいかけた。
「なにもう寝なくッても――こんなに明るくなッちゃア寝てもいられまい。何しろ寒くッて、これじゃアたまらないや。お熊どん、私の着物を出してもらおうじゃないか」
「まアいいじゃアありませんか。今朝はゆっくりなすッて、一口召し上ッてからお帰りなさいましな」
「そうさね。どうでもいいんだけれど、何しろ寒くッて」
「本統に馬鹿にお寒いじゃあありませんかね。何か上げましょうね。ちょいとこれでも被《はお》ッていらッしゃい」と、お熊は衣桁《いこう》に掛けてあッた吉里のお召|縮緬《ちりめん》の座敷着を取ッて、善吉の後から掛けてやッた。
善吉はにっこりして左右の肩を見返り、「こいつぁア強気《ごうぎ》だ。これを借りてもいいのかい」
「善さんのことですもの。ねえ。花魁」
「へへへへへ。うまく言ッてるぜ」
「よくお似合いなさいますよ。ほほほほほ」
「はははは。袖を通したら、おかしなものだろう」
「なに、あなた。袖をお通しなすッて立ッてごらんなさい、きッとよくお似合いなさいますよ。ねえ、花魁」
「まさか。ははははは」
「ほほほほほ」
吉里は一語《ひとこと》も発《い》わぬ。見向きもせぬ。やはり箪笥にもたれたまま考えている。
「そうしていらッしゃるうちに、お顔を洗ッていらッしゃいまし。その間《うち》にお掃除をして、じきにお酒にするようにしておきますよ。花魁、お連れ申して下さい。はい」と、お熊は善吉の前に楊枝箱《ようじばこ》を出した。
善吉は吉原楊枝の房を※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》ッては火鉢の火にくべている。
「お誂《あつら》えは何を通しましょうね。早朝《はやい》んですから、何も出来ゃアしませんよ。桶豆腐《おけどうふ》にでもしましょうかね。それに油卵《あぶたま》でも」
「何でもいいよ。湯豆腐は結構だね」
「それでよござんすね。じゃア、花魁お連れ申して下さい」
吉里は何も言わず、ついと立ッて廊下へ出た。善吉も座敷着を被《はお》ッたまま吉里の後《あと》から室を出た。
「花魁、お手拭は」と、お熊は吉里へ声をかけた。
吉里は返辞をしない。はや二三間あちらへ行ッていた。
「私におくれ」と、善吉は戻ッて手拭を受け取ッて吉里を見ると、もう裏梯子を下りようとしていたところである。善吉は足早に吉里の後を追うて、梯子の中段で追いついたが、吉里は見返りもしないで下湯場《しもゆば》の方へ屈《まが》ッた。善吉はしばらく待ッていたが、吉里が急に出て来る様子もないから、われ一人|悄然《しょうぜん》として顔を洗いに行ッた。
そこには客が二人顔を洗ッていた。敵娼《あいかた》はいずれもその傍に附き添い、水を杓《く》んでやる、掛けてやる、善吉の目には羨ましく見受けられた。
客の羽織の襟が折れぬのを理《なお》しながら善吉を見返ッたのは、善吉の連初会《つれじょかい》で二三度一座したことのある初緑《はつみどり》という花魁である。
「おや、善さん。昨夜《ゆうべ》もお一人。あんまりひどうござんすよ。一度くらいは連れて来て下すッたッていいじゃありませんか。本統にひどいよ」
「そういうわけじゃアないんだが、あの人は今こっちにいないもんだから」
「虚言《うそ》ばッかし。ようござんすよ。たんとお一人でおいでなさいよ」
「困るなアどうも」
「なに、よござんすよ。覚えておいでなさいよ。今日は昼間遊んでおいでなさるんでしょう」
「なに、そういうわけでもない」
「去《かえ》らないでおいでなさいよ、後で遊びに行きますから」
「東雲《しののめ》さんの吉《きッ》さんは今日も流連《なが》すんだッてね」と、今一人の名山《めいざん》という花魁が言いかけて、顔を洗ッている自分の客の書生風の男の肩を押え、「お前さんも去《かえ》らないで、夕方までおいでなさいよ」
「僕か。僕はいかん。なア君」
「そうじゃ。いずれまた今晩でも出直して来るんじゃ」
「よござんすよ、お前さんなんざアどうせ不実だから」
「何じゃ。不実じゃ」
「名山さん、金盥《かなだらい》が明いたら貸しておくれよ」と、今客を案内して来た小式部という花魁が言ッた。
「小式部さん、これを上げよう」と、初緑は金盥の一個《ひとつ》を小式部が方《かた》へ押しやり、一個《ひとつ》に水を満々《なみなみ》と湛《たた》えて、「さア善さん、お用《つか》いなさい。もうお湯がちっともないから、水ですよ」
「いや、結構。ありがとう」
「今度おいでなさる時、きっとですよ」
善吉は漱《うがい》をしながらうなずく。初緑らの一群は声高に戯《たわぶ》れながら去《い》ッてしまッた。
「吉里さん、吉里さん」と、呼んだ声が聞えた。善吉は顔を水にしながら声のした方を見ると、裏梯子の下のところに、吉里が小万と話をしていた。善吉はしばらく見つめていた。善吉が顔を洗い了《おわ》ッた時、小万と吉里が二階の廊下を話しながら行くのが見えた。
八
桶には豆腐の煮える音がして盛んに湯気が発《た》ッている。能代《のしろ》の膳には、徳利《とッくり》が袴《はかま》をはいて、児戯《ままごと》みたいな香味《やくみ》の皿と、木皿に散蓮華《ちりれんげ》が添えて置いてあッて、猪口《ちょく》の黄金水《おうごんすい》には、桜花《さくら》の弁《はなびら》が二枚散ッた画と、端に吉里と仮名で書いたのが、浮いているかのように見える。
膳と斜めに、ぼんやり箪笥にもたれている吉里に対《むか》い、うまくもない酒と太刀打ちをしているのは善吉である。吉里は時々伏目に善吉を見るばかりで、酌一つしてやらない。お熊は何か心願の筋があるとやらにて、二三の花魁の代参を兼ね、浅草の観世音へ朝参りに行ッてしまッた。善吉のてれ加減、わずかに溜息《ためいき》をつき得るのみである。
「吉里さん、いかがです。一杯《ひとつ》受けてもらいたいものですな。こうして飲んでいたッて――一人で飲むという奴は、どうも淋《さみ》しくッて、何だか飲んでるような気がしなくッていけないものだ。一杯《ひとつ》受けてもらいたいものですな。ははははは。私なんざア流連《いつづけ》をする玉でないんだから、もうじきにお暇《いとま》とするんだが、花魁今朝だけは器用に快よく受けて下さいな。これがお別れなんだ。今日ッきりもうお前さんと酒を飲むこともないんだから、器用に受けて、お前さんに酌をしてもらやアいい。もう、それでいいんだ。他に何にも望みはないんだ。改めて献《あ》げるから、ねえ吉里さん、器用に受けて下さい」
善吉は注置《つぎお》
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