前はわけて走るようにして通ッた男がある。
お梅はちょいと西宮の袖を引き、「善さんでしたよ」と、かの男を見送りながら細語《ささや》いた。
「え、善さん」と、西宮も見送りながら、「ふうむ」
三ツばかり先の名代《みょうだい》部屋で唾壺《はいふき》の音をさせたかと思うと、びッくりするような大きな欠伸《あくび》をした。
途端に吉里が先に立ッて平田も後から出て来た。
「お待遠さま。兄さん、済みません」と、吉里の声は存外|沈着《おちつ》いていた。
平田は驚くほど蒼白《あおざめ》た顔をして、「遅くなッた、遅くなッた」と、独語《ひとりごと》のように言ッて、忙がしそうに歩き出した。足には上草履を忘れていた。
「平田さん、お草履を召していらッしゃい」と、お梅は戻《もど》ッて上草履を持ッて、見返りもせぬ平田を追ッかけて行く。
「兄さん」と、吉里は背後《うしろ》から西宮の肩を抱《いだ》いて、「兄さんは来て下さるでしょうね。きッとですよ、きッとですよ」
西宮は肩へ掛けられた吉里の手をしかと握ッたが、妙に胸が迫ッて返辞がされないで、ただうなずいたばかりだ。
「平田さん、お待ちなさいよ。平田さん」
お梅が幾たび声をかけても、平田はなお見返らないで、廊下の突当りの角を表梯子《おもてばしご》の方へ曲ろうとした時、「どこへおいでなさるの。こッちですよ」と、声をかけたのは小万だ。
「え、何だ。や、小万さんか。失敬」と、平田は小万の顔を珍らしそうにみつめた。
「どうなすッたの。ほほほほほ」
「お草履をおはきなさいよ」と、お梅は上草履を平田の前に置いた。
「あ、そうか」と、平田が上草履をはくところへ西宮も吉里も追いついた。
「あんまり何だから、どうなすッたかと思ッて……。平田さん、私の座敷へいらッしゃいよ。ゆッくりお茶でも召し上ッて。ねえ、吉里さん」
「ありがとう。いや、もう行こう。ねえ、西宮」
「そんなことをおッしゃらないで。何ですよ、まアいいじゃアありませんか」
西宮はじッと小万の顔を見た。吉里は西宮の後にうつむいている。平田は廊下の洋燈《ランプ》を意味もなく見上げている。
「もうこのまま出かけよう。夜が明けても困る」と、西宮は小万にめくばせして、「お梅どん、帽子と外套《がいとう》を持ッて来るんだ。平田のもだよ。人車《くるま》は来てるだろうな」
「もうさッきから待ッてますよ」
お梅は二客《ふたり》の外套帽子を取りに小万の部屋へ走ッて行った。
「平田さん」と、小万は平田の傍へ寄り、「本統にお名残り惜しゅうござんすことね。いつまたお目にかかれるでしょうねえ。御道中をお気をおつけなさいよ。貴郷《おくに》にお着きなすッたら、ちょいと知らせて下さいよ。ね、よござんすか。こんなことになろうとはね」
「何だ。何を言ッてるんだ。一言言やア済むじゃアないか」
西宮に叱られて、小万は顔を背向《そむ》けながら口をつぐんだ。
「小万さん、いろいろお世話になッたッけねえ」と、平田は言いかけてしばらく無言。「どうか頼むよ」その声には力があり過ぎるほどだが、その上は言い得なかった。
小万も何とも言い得ないで、西宮の後にうつむいている吉里を見ると、胸がわくわくして来て、涙を溢《こぼ》さずにはいられなかッた。
お梅が帽子と外套を持ッて来た時、階下《した》から上ッて来た不寝番《ねずばん》の仲どんが、催促がましく人車《くるま》の久しく待ッていることを告げた。
平田を先に一同梯子を下りた。吉里は一番後れて、階段《ふみだん》を踏むのも危険《あぶな》いほど力なさそうに見えた。
「吉里さん、吉里さん」と、小万が呼び立てた時は、平田も西宮ももう土間に下りていた。吉里は足が縮《すく》んだようで、上《あが》り框《がまち》までは行かれなかッた。
「吉里さん、ちょいと、ちょいと」と、西宮も声をかけた。
吉里は一語《ひとこと》も吐《だ》さないで、真蒼《まッさお》な顔をしてじッと平田を見つめている。平田もじッと吉里を見ていたが、堪えられなくなッて横を向いた時、仲どんが耳門《くぐり》を開ける音がけたたましく聞えた。平田は足早に家外《おもて》へ出た。
「平田さん、御機嫌《ごきげん》よろしゅう」と、小万とお梅とは口を揃《そろ》えて声をかけた。
西宮はまた今夜にも来て様子を知らせるからと、吉里へ言葉を残して耳門《くぐり》を出た。
「おい、気をつけてもらおうよ。御祝儀を戴いてるんだぜ。さようなら、御機嫌よろしゅう。どうかまたお近い内に」
車声《くるま》は走り初めた。耳門はがらがらと閉められた。
この時まで枯木《こぼく》のごとく立ッていた吉里は、小万に顔を見合わせて涙をはらはらと零《おと》し、小万が呼びかけた声も耳に入らぬのか、小走りの草履の音をばたばたとさせて、裏梯子から二階の自分の室へ駈け込み、まだ温気《あたたかみ》のある布団《ふとん》の上に泣き倒れた。
六
万客《ばんきゃく》の垢《あか》を宿《とど》めて、夏でさえ冷やつく名代部屋の夜具の中は、冬の夜の深《ふ》けては氷の上に臥《ね》るより耐えられぬかも知れぬ。新造《しんぞ》の注意か、枕もとには箱火鉢に湯沸しが掛かッて、その傍には一本の徳利と下物《さかな》の尽きた小皿とを載せた盆がある。裾の方は屏風《びょうぶ》で囲われ、頭《かみ》の方の障子の破隙《やぶれ》から吹き込む夜風は、油の尽きかかッた行燈の火を煽《あお》ッている。
「おお、寒い寒い」と、声も戦《ふる》いながら入ッて来て、夜具の中へ潜《もぐ》り込み、抱巻《かいまき》の袖に手を通し火鉢を引き寄せて両手を翳《かざ》したのは、富沢町の古着屋|美濃屋《みのや》善吉と呼ぶ吉里の客である。
年は四十ばかりで、軽《かろ》からぬ痘痕《いも》があッて、口つき鼻つきは尋常であるが、左の眼蓋《まぶた》に眼張《めっぱ》のような疵《きず》があり、見たところの下品《やすい》小柄の男である。
善吉が吉里のもとに通い初めたのは一年ばかり前、ちょうど平田が来初めたころのことである。吉里はとかく善吉を冷遇し、終宵《いちや》まったく顔を見せない時が多かッたくらいだッた。それにも構わず善吉は毎晩のように通い詰め通い透《とお》して、この十月ごろから別して足が繁くなり、今月になッてからは毎晩来ていたのである。死金ばかりは使わず、きれるところにはきれもするので、新造や店の者にはいつも笑顔で迎えられていたのであった。
「寒いッたッて、箆棒《べらぼう》に寒い晩だ。酒は醒《さ》めてしまッたし、これじゃアしようがない。もうなかッたかしら」と、徳利を振ッて見て、「だめだ、だめだ」と、煙管《きせる》を取り上げて二三|吹《ぷく》続けさまに煙草を喫《の》んだ。
「今あすこに立ッていたなア、小万の情夫《いいひと》になッてる西宮だ。一しょにいたのはお梅のようだッた。お熊が言ッた通り、平田も今夜はもう去《かえ》るんだと見えるな。座敷が明いたら入れてくれるか知らん。いい、そんなことはどうでもいい。座敷なんかどうでもいいんだ。ちょいとでも一しょに寝て、今夜ッきり来ないことを一言断りゃいいんだ。もう今夜ッきりきッと来ない。来ようと思ッたッて来られないのだ。まだ去《かえ》らないのかなア。もう帰りそうなものだ。大分手間が取れるようだ。本統に帰るのか知らん。去《かえ》らなきゃ去らないでもいい。情夫《いいひと》だとか何だとか言ッて騒いでやアがるんだから、どうせ去《かえ》りゃしまいよ。去らなきゃそれでいいから、顔だけでもいいから、ちょいとでもいいから……。今夜ッきりだ。もう来られないのだ。明日はどうなるんだか、まア分ッてるようでも……。自分ながら分らないんだ。ああ……」
方角も吉里の室、距離《とおさ》もそのくらいのところに上草履の音が発《おこ》ッて、「平田さん、お待ちなさいよ」と、お梅の声で呼びかけて追いかける様子である。その後から二三人の足音が同じ方角へ歩み出した。
「や、去《かえ》るな。いよいよ去るな」と、善吉は撥《は》ね起きて障子を開けようとして、「またお梅にでもめッけられちゃア外見《きまり》が悪いな」と、障子の破隙《やぶれ》からしばらく覗いて、にッこりしながらまた夜具の中に潜り込んだ。
上草履の音はしばらくすると聞えなくなッた。善吉は耳を澄ました。
「やッぱり去《かえ》らないんだと見えらア。去らなきゃア吉里が来ちゃアくれまい。ああ」と、善吉は火鉢に翳していた両手の間に頭を埋めた。
しばらくして頭を上げて右の手で煙管を探ッたが、あえて煙草を喫《の》もうでもなく、顔の色は沈み、眉は皺《ひそ》み、深く物を思う体《てい》である。
「ああッ、お千代に済まないなア。何と思ッてるだろう。横浜に行ッてることと思ッてるだろうなア。すき好んで名代部屋に戦《ふる》えてるたア知らなかろう。さぞ恨んでるだろうなア。店も失《な》くした、お千代も生家《さと》へ返してしまッた――可哀そうにお千代は生家へ返してしまッたんだ。おれはひどい奴だ――ひどい奴なんだ。ああ、おれは意気地がない」
上草履はまたはるかに聞え出した。梯子《はしご》を下りる音も聞えた。善吉が耳を澄ましていると、耳門《くぐり》を開ける音がして、続いて人車《くるま》の走るのも聞えた。
「はははは、去《かえ》ッた、去ッた、いよいよ去ッた。これから吉里が来るんだ。おれのほかに客はないのだし、きッとおれのところへ来るんだ。や、走り出したな。あの走ッてるのは吉里の草履の音だ。裏梯子を上ッて来る。さ、いよいよここへ来るんだ。きッとそうだ。きッとそうだ。そらこッちに駈けて来た」
善吉は今にも吉里が障子を開けて、そこに顔を出すような気がして、火鉢に手を翳していることも出来ず、横にころりと倒《ころ》んで、屏風の端から一尺ばかり見える障子を眼を細くしながら見つめていた。
上草履は善吉が名代部屋の前を通り過ぎた。善吉はびッくりして起き上ッて急いで障子を開けて見ると、上草履の主ははたして吉里であッた。善吉は茫然《ぼうぜん》として見送ッていると、吉里は見返りもせずに自分の室へ入ッて、手荒く障子を閉めた。
善吉は何か言おうとしたが、唇を顫《ふる》わして息を呑んで、障子を閉めるのも忘れて、布団の上に倒れた。
「畜生、畜生、畜生めッ」と、しばらくしてこう叫んだ善吉は、涙一杯の眼で天井を見つめて、布団を二三度|蹴《け》りに蹴った。
「おや、何をしていらッしゃるの」
いつの間に人が来たのか。人が何を言ッたのか。とにかく人の声がしたので、善吉はびッくりして起き上ッて、じッとその人を見た。
「おほほほほほ。善さん、どうなすッたんですよ、まアそんな顔をなすッてさ。さアあちらへ参りましょう」
「お熊どんなのか。私しゃ今何か言ッてやアしなかッたかね」
「いいえ、何にも言ッてらッしゃりはしませんかッたよ。何だか変ですことね。どうかなすッたんですか」
「どうもしやアしない。なに、どうするものか」
「じゃア、あちらへ参りましょうよ」
「あちらへ」
「去《かえ》り跡になりましたから、花魁のお座敷へいらッしゃいよ」
「あ、そうかい。はははははは。そいつア剛気だ」
善吉はつ[#「つ」に傍点]と立ッて威勢よく廊下へ出た。
「まアお待ちなさいよ。何かお忘れ物はございませんか。お紙入れは」
善吉は返事もしない。お熊が枕もとを片づけるうちに、早や廊下を急ぐその足音が聞えた。
「まるで夢中だよ。私の言うことなんざ耳に入らないんだよ。何にも忘れなすッた物はないかしら。そら忘れて行ッたよ。あんなに言うのに紙入れを忘れて行ッたよ。煙草入れもだ。しようがないじゃアないか」
お熊は敷布団の下にあッた紙入れと煙草入れとを取り上げ、盆を片手に持ッて廊下へ出た。善吉はすでに廊下に見えず、かなたの吉里の室の障子が明け放してあった。
「早くお臥《やす》みなさいまし。お寒うございますよ」と、吉里の室に入ッて来たお熊は、次の間に立ッたまま上の間へ進みにくそうに見えた善吉へ言った。
上の間の唐紙は明放しにして、半ば押し除《の》けられた屏風の中には、吉里があちらを向いて寝てい
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