考えりゃア、無断《だんまり》で不意と出発《たっ》て行くかも知れない。私はともかく、平田はそんな不実な男じゃない、実に止むを得ないのだ。もう承知しておくれだッたのだから、くどく言うこともないのだが……。お前さんの性質《きしょう》だと……もうわかッてるんだから安心だが……。吉里さん、本統に頼むよ」
吉里はまた泣き出した。その声は室外《そと》へ漏れるほどだ。西宮も慰めかねていた。
「へい、お誂《あつら》え」と、仲どんが次の間へ何か置いて行ッたようである。
また障子を開けた者がある。次の間から上の間を覗いて、「おや、座敷の花魁はまだあちらでございますか」と、声をかけたのは、十六七の眼の大きい可愛らしい女で、これは小万の新造《しんぞ》のお梅である。
「平田さんもまだおいでなさらないんですね」と、お梅は仲どんが置いて行ッた台の物を上の間へ運び、「お飯《まんま》になすッちゃアいかがでございます。皆さんをお呼び申しましょうか」
「まアいいや。平田は吉里さんの座敷にいるかい」
「はい。お一人でお臥《よ》ッていらッしゃいましたよ。お淋《さみ》しいだろうと思ッて私が参りますとね、あちらへ行ッてろとおッしゃッて、何だか考えていらッしゃるようですよ」
「うまく言ッてるぜ。淋しかろうと思ッてじゃアなかろう、平田を口説《くど》いて鉢を喰《く》ッたんだろう。ははははは。いい気味だ。おれの言う言《こと》を、聞かなかッた罰《ばち》だぜ」
「あら、あんなことを。覚えていらッしゃいよ」
「本統だから、顔を真赤にしたな。ははははは」
「あら、いつ顔なんか真赤にしました。そんなことをお言いなさると、こうですよ」
「いや、御免だ。擽《くす》ぐるのは御免だ。降参、降参」
「もう言いませんか」
「もう言わない、言わない。仲直りにお茶を一杯《ひとつ》。湯が沸いてるなら、濃くして頼むよ」
「いやなことだ」と、お梅は次の間で茶を入れ、湯呑みを盆に載せて持って来て、「憎らしいけれども、はい」
「いや、ありがたいな。これで平田を口説いたのと差引きにしてやろう」
「まだあんなことを」
「おッと危《あぶ》ない。溢《こぼ》れる、溢れる」
「こんな時でなくッちゃア、敵《かたき》が取れないわ。ねえ、花魁」
吉里は淋しそうに笑ッて、何とも言わないでいる。
「今擽られてたまるものか。降参、降参、本統に降参だ」
「きっとですか」
「きっとだ、きっとだ」
「いい気味だ。謝罪《あやまら》せてやッた」
「ははははは。お梅どんに擽られてたまるもんか。男を擽ぐる急所を心得てるんだからね」
「何とでもおっしゃい。どうせあなたには勝《かな》いませんよ」と、お梅は立ち上りながら、「御膳《ごぜん》はお後で、皆さんと御一しょですね。もすこししてからまた参ります」と、次の間へ行ッた。
誰が覗いていたのか、障子をぴしゃりと外から閉《た》てた者がある。
「あら、誰か覗いてたよ」と、お梅が急いで障子を開けると、ぱたぱたぱたぱたと廊下を走る草履の音が聞えた。
「まア」と、お梅の声は呆《あき》れていた。
四
「どうしたんだ」と、西宮は事ありそうに入ッて来たお梅を見上げた。
「善さんですよ。善さんが覗いていなすッたんですよ」と、お梅は眼を丸くして、今顔を上げた吉里を見た。
「おえない妬漢《じんすけ》だよ」と、吉里は腹立たしげに見えた。
「さっきからね、花魁のお座敷を幾たびも覗いていなさるんですよ。平田さんが怒んなさりゃしまいかと思ッて、本統に心配しましたよ」
「あんまりそんな真似をすると、謝絶《ことわ》ッてやるからいい。ああ、自由《まま》にならないもんだことねえ」と、吉里は西宮をつくづく視《み》て、うつむいて溜息を吐《つ》く。
「座敷の花魁は遅うございますことね。ちょいと見て参りますよ」と、お梅は次の間で鉄瓶に水を加《さ》す音をさせて出て行ッた。
「西宮さん」と、吉里は声に力を入れて、「私ゃどうしたらいいでしょうね。本統に辛いの。私の身にもなッて察して下さいよ」
「実に察しる」と、西宮はしばらく考え、「実に察しているのだ。お前さんに無理に頼んだ私の心の中も察してもらいたい。なかなか私に言えそうもなかッたから、最初《はじめ》は小万に頼んで話してもらうつもりだッたのさ。小万もそんなことは話せないて言うから、しかたなしに私が話したようなわけだからね、お前さんが承知してくれただけ、私ゃなお察しているんだよ。三十面を下げて、馬鹿を尽してるくらいだから、他《ひと》には笑われるだけ人情はまア知ッてるつもりだ。どうか、平田のためだと思ッて、我慢して、ねえ吉里さん、どうか頼むよ」
「しかたがありませんよ、ねえ兄さん」と、吉里はついに諦めたかのごとく言い放しながらなお考えている。
「私もこんな苦しい思いをしたことはない」
「こういうはかない縁なんでしょうよ、ねえ。考えると、小万さんは羨《うらや》ましい」と、吉里はしみじみ言ッた。
「いや、私も来ないつもりだ」と、西宮ははッきり言い放ッた。
「えッ」と、吉里はびッくりして、「え。なぜ。どうなすッたの」と、西宮の顔を見つめて呆れている。
「いや、なぜということもない。辛いのは誰しも同一《おんなじ》だ。お前さんと平田の苦衷《こころ》を察しると、私一人どうして来られるものか」
「なぜそんなことをお言《い》なさるの。私ゃそんなつもりで」
「そりゃわかッてる。それで来る来ないと言うわけじゃない。実に忍びないからだ」
「いや、いや、私ゃ否《いや》ですよ。私が小万さんに済みません。平田さんには別れなければならないし、兄さんでも来て下さらなきゃ、私ゃどうします。私が悪るかッたら謝罪《あやま》るから、兄さん今まで通り来て下さいよ。私を可哀そうだと思ッて来て下さいよ。え、よござんすか。え、え」と、吉里は詫《わ》びるように頼むように幾たびとなく繰り返す。
西宮はうつむいて眼を閉《ねむ》ッて、じッと考えている。
吉里はその顔を覗き込んで、「よござんすか。ねえ兄さん、よござんすか。私ゃ兄さんでも来て下さらなきゃア……」と、また泣き声になッて、「え、よござんすか」
西宮は閉目《ねむっ》てうつむいている。
「よござんすね、よござんすね。本統、本統」と、吉里は幾たびとなく念を押して西宮をうなずかせ、はアッと深く息を吐《つ》いて涙を拭きながら、「兄さんでも来て下さらなきゃア、私ゃ生きちゃアいませんよ」
「よろしい、よろしい」と、西宮はうなずきながら、「平田の方は断念《おもいき》ッてくれるね。私もお前さんのことについちゃア、後来《こののち》何とでもしようから」
「しかたがありません、断念《おもいき》らないわけには行かないのだから。もう、音信《たより》も出来ないんですね」
「さア。そう思ッていてもらわなければ……」と、西宮も判然《はき》とは答えかねた。
吉里はしばらく考え、「あんまり未練らしいけれどもね、後生ですから、明日《あした》にも、も一遍連れて来て下さいよ」と、顔を赧《あか》くしながら西宮を見る。
「もう一遍」
「ええ。故郷《おくに》へ発程《たつ》までに、もう一遍御一緒に来て下さいよ、後生ですから」
「もう一遍」と、西宮は繰り返し、「もう、そんな間《ひま》はないんだよ」
「えッ。いつ故郷《おくに》へ立発《たつ》んですッて」と、吉里は膝を進めて西宮を見つめた。
「新橋の、明日の夜汽車で」と、西宮は言いにくそうである。
「えッ、明日の……」と、吉里の顔色は変ッた。西宮を見つめていた眼の色がおかしくなると、歯をぎりぎりと噛《か》んだ。西宮がびッくりして声をかけようとした時、吉里はううんと反《そ》ッて西宮へ倒れかかッた。
折よく入ッて来た小万は、吉里の様子にびっくりして、「えッ、どうおしなの」
「どうしたどころじゃアない。早くどうかしてくれ。どうも非常な力だ」
「しッかりおしよ。吉里さんしッかりおしよ。反ッちゃアいけないのに、あらそんなに反ッちゃア」
「平田はどうした。平田は、平田は」
「平田さんですか」
いつかお梅も此室《ここ》に来て、驚いて手も出ないで、ぼんやり突ッ立ッていた。
「お梅どんそこにいたのかい。何をぼんやりしてるんだよ。平田さんを早く呼んでおいで。気が利かないじゃアないか。早くおし。大急ぎだよ。反ッちゃアいけないと言うのにねえ。しッかりおしよ。吉里さん。吉里さん」
お梅はにわかにあわて出し、唐紙へ衝《つ》き当り障子を倒し、素足で廊下を駈《か》け出した。
五
平田は臥床《とこ》の上に立ッて帯を締めかけている。その帯の端に吉里は膝を投げかけ、平田の羽織を顔へ当てて伏し沈んでいる。平田は上を仰《む》き眼を合《ねむ》り、後眥《めじり》からは涙が頬へ線《すじ》を画《ひ》き、下唇《したくちびる》は噛まれ、上唇は戦《ふる》えて、帯を引くだけの勇気もないのである。
二人の定紋を比翼につけた枕《まくら》は意気地なく倒れている。燈心が焚《も》え込んで、あるかなしかの行燈《あんどう》の火光《ひかり》は、「春如海《はるうみのごとし》」と書いた額に映ッて、字形を夢のようにしている。
帰期《かえり》を報《し》らせに来た新造《しんぞ》のお梅は、次の間の長火鉢に手を翳《かざ》し頬を焙《あぶ》り、上の間へ耳を聳《そばだ》てている。
「もう何時になるんかね」と、平田は気のないような調子で、次の間のお梅に声をかけた。
「もすこし前五時を報《う》ちましたよ」
「え、五時過ぎ。遅くなッた、遅くなッた」と、平田は思いきッて帯を締めようとしたが、吉里が動かないのでその効《かい》がなかッた。
「あッちじゃアもう支度をしてるのかい」
「はい。西宮さんはちッともお臥《よ》らないで、こなたの……」と、言い過ぎようとして気がついたらしく、お梅は言葉を切ッた。
「そうか。気の毒だッたなア。さア行こう」
吉里はなお帯を放さぬ。
「まアいいよ。そんなに急がんでもいいよ」と、声をかけながら、障子を開けたのは西宮だ。
「おやッ、西宮さん」と、お梅は見返ッた。
「起きてるのかい」と、西宮はわざと手荒く唐紙を開け、無遠慮に屏風《びょうぶ》の中を覗くと、平田は帯を締め了《おわ》ろうとするところで、吉里は後から羽織を掛け、その手を男の肩から放しにくそうに見えた。
「失敬した、失敬した。さア出かけよう」
「まアいいさ」
「そうでない、そうでない」と、平田は忙がしそうに体を揺すぶりながら室《へや》を出かけた。
「ああ、ちょいと、あの……」と、吉里の声は戦《ふる》えた。
「おい、平田。何か忘れた物があるんじゃアないか」
「なにない。何にもない」
「君はなかろうが……。おい、おい、何をそんなに急ぐのだ」
「何をッて」
西宮は平田の腕を取ッて、「まア何でもいい。用があるから……。まア、少し落ちついて行くさ」と、再び室の中に押し込んで、自分はお梅とともに廊下の欄干《てすり》にもたれて、中庭を見下している。
研《と》ぎ出したような月は中庭の赤松の梢《こずえ》を屋根から廊下へ投げている。築山《つきやま》の上り口の鳥居の上にも、山の上の小さな弁天の社《やしろ》の屋根にも、霜が白く見える。風はそよとも吹かぬが、しみるような寒気《さむさ》が足の爪先《つまさき》から全身を凍らするようで、覚えず胴戦《どうぶる》いが出るほどだ。
中庭を隔てた対向《むこう》の三ツ目の室には、まだ次の間で酒を飲んでいるのか、障子に男女《なんにょ》二個《ふたつ》の影法師が映ッて、聞き取れないほどの話し声も聞える。
「なかなか冷えるね」と、西宮は小声に言いながら後向きになり、背《せなか》を欄干《てすり》にもたせ変えた時、二上《にあが》り新内を唄《うた》うのが対面《むこう》の座敷から聞えた。
「わるどめせずとも、そこ放せ、明日の月日の、ないように、止めるそなたの、心より、かえるこの身は、どんなにどんなに、つらかろう――」
「あれは東雲《しののめ》さんの座敷だろう。さびのある美音《いいこえ》だ。どこから来る人なんだ」と、西宮がお梅に問《たず》ねた時、廊下を急ぎ足に――吉里の室の
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