声をかけた。
「おい、まだかい」
「ああやッと出来ましたよ」と、小万は燗瓶《かんびん》を鉄瓶から出しながら、「そんなわけなんだからね。いいかね、お熊どん。私がまた後でよく言うからね、今晩はわがままを言わせておいておくれ」
「どうかねえ。お頼み申しますよ」と、お熊は唐紙《からかみ》越しに、「花魁、こなたの御都合でねえ、よござんすか」
「うるさいよッ」と、吉里も唐紙越しに睨んで、「人のことばッかし言わないで、自分も気をつけるがいいじゃアないか。ちッたアそこで燗番でもするがいいんさ。小万さんの働いておいでなのが見えないのか。自分がいやなら、誰かよこしとくがいいじゃアないか」
「はい、はい。どうもお気の毒さま」と、お熊は室外《そと》へ出た。
「本統に誰かよこしておくんなさいよ。お梅どんがどッかいるだろうから、来るように言ッておくんなさいよ」と、小万も上の間へ来ながら声をかけたが、お熊はもういないのか返辞がなかッた。
「あんないやな奴《やつ》ッちゃアないよ。新造《しんぞ》を何だと思ッてるんだろう。花魁に使われてる奉公人じゃアないか。あんまりぐずぐず言おうもんなら、御内所へ断わッてやるぞ。何だろう、奉公人のくせに」
「もういいじゃアないかね。新造衆《しんぞしゅう》なんか相手にしたッて、どうなるもんかね」
小万は上の間に来て平田の前に座ッた。
平田は待ちかねたという風情で、「小万さん、一杯|献《あ》げようじゃアないかね」
「まアお熱燗《あつ》いところを」と、小万は押えて平田へ酌《しゃく》をして、「平田さん、今晩は久しぶりで酔ッて見ようじゃありませんか」と、そッと吉里を見ながら言ッた。
「そうさ」と、平田はしばらく考え、ぐッと一息に飲み乾《ほ》した猪口を小万にさし、「どうだい、酔ッてもいいかい」
「そうさなア。君まで僕を困らせるんじゃアないか」と、西宮は小万を見て笑いながら、「何だ、飲めもしないくせに。管《くだ》を巻かれちゃア、旦那様《だんなさま》がまたお困り遊ばさア」
「いつ私が管を巻いたことがあります」と、小万は仰山《ぎょうさん》らしく西宮へ膝を向け、「さアお言いなさい。外聞の悪いことをお言いなさんなよ」
「小万さん、お前も酔ッておやりよ。私ゃ管でも巻かないじゃアやるせがないよ。ねえ兄さん」と、吉里は平田をじろりと見て、西宮の手をしかと握り、「ねえ、このくらいなことは勘忍して下さるでしょう」
「さア事だ。一人でさえ持て余しそうだのに、二人まで大敵を引き受けてたまるもんか。平田、君が一方を防ぐんだ。吉里さんの方は僕が引き受けた。吉里さん、さア思うさま管を巻いておくれ」
「ほほほ。あんなことを言ッて、また私をいじめようともッて。小万さん、お前加勢しておくれよ」
「いやなことだ。私ゃ平田さんと仲よくして、おとなしく飲むんだよ。ねえ平田さん」
「ふん。不実同士|揃《そろ》ッてやがるよ。平田さん、私がそんなに怖《こわ》いの。執《と》ッ着《つ》きゃしませんからね、安心しておいでなさいよ。小万さん、注《つ》いでおくれ」と、吉里は猪口を出したが、「小杯《ちいさく》ッて面倒くさいね」と傍《そば》にあッた湯呑《ゆの》みと取り替え、「満々《なみなみ》注いでおくれよ」
「そろそろお株をお始めだね。大きい物じゃア毒だよ」
「毒になッたッてかまやアしない。お酒が毒になッて死んじまッたら、いッそ苦労がなくッて……」と、吉里はうつむき、握ッていた西宮の手へはらはらと涙を零《こぼ》した。
平田は額に手を当てて横を向いた。西宮と小万は顔を見合わせて覚えず溜息《ためいき》を吐《つ》いた。
「ああ、つまらないつまらない」と、吉里は手酌で湯呑みへだくだく[#「だくだく」に傍点]と注ぐ。
「お止しと言うのに」と、小万が銚子《ちょうし》を奪《と》ろうとすると、「酒でも飲まないじゃア……」と、吉里がまた注ぎにかかるのを、小万は無理に取り上げた。吉里は一息に飲み乾し、顔をしかめて横を向き、苦しそうに息を吐いた。
「剛情だよ、また後で苦しがろうと思ッて」
「お酒で苦しいくらいなことは……。察して下さるのは兄さんばかりだよ」と、吉里は西宮を見て、「堪忍して下さいよ。もう愚痴は溢《こぼ》さない約束でしたッけね。ほほほほほほ」と、淋しく笑ッた。
「花魁《おいらん》、花魁」と、お熊がまたしても室外《そと》から声をかける。
「今じきに行くよ」と、吉里も今度は優しく言う。お熊は何も言わないであちらへ行ッた。
「ちょいと行ッて来ちゃアどうだね、も一杯威勢を附けて」
西宮が与《さ》した猪口に満々《なみなみ》と受けて、吉里は考えている。
「本統にそうおしよ。あんまり放擲《うッちゃ》ッといちゃアよくないよ。善さんも気の毒な人さ。こんなに冷遇《され》ても厭な顔もしないで、毎晩のように来ておいでなんだから、怒らせないくらいにゃしておやりよ」と、小万も吉里が気に触《さわ》らないほどにと言葉を添えた。
「また無理をお言いだよ」と、吉里は猪口を乾《ほ》して、「はい、兄さん。本統に善さんにゃ気の毒だとは思うけれど、顔を見るのもいやなんだもの。信切《しんせつ》な人ではあるし……。信切にされるほど厭になるんだもの。誰かのように、実情《じつ》がないんじゃアなし、義理を知らないんじゃアなし……」
平田はぷい[#「ぷい」に傍点]と坐を起《た》ッた。
「お便所《ちょうず》」と、小万も起とうとする。「なアに」と、平田は急いで次の間へ行ッた。
「放擲《うッちゃ》ッておおきよ、小万さん。どこへでも自分の好きなとこへ行くがいいやね」
次の間には平田が障子を開けて、「おやッ、草履がない」
「また誰か持ッてッたんだよ。困ることねえ。私のをはいておいでなさいよ」と、小万が声をかけるうちに、平田が重たそうに上草履を引き摺ッて行く音が聞えた。
「意気地のない歩きッ振りじゃないか」と、わざとらしく言う吉里の頬《ほお》を、西宮はちょいと突いて、「はははは。大分|愛想尽《あいそづか》しをおっしゃるね」
「言いますとも。ねえ、小万さん」
「へん、また後で泣こうと思ッて」
「誰が」
「よし。きっとだね」と、西宮は念を押す。
「ふふん」と、吉里は笑ッて、「もう虐《いじ》めるのはたくさん」
店梯子《みせばしご》を駈《か》け上る四五人の足音がけたたましく聞えた。「お客さまア」と、声々に呼びかわす。廊下を走る草履が忙《せわ》しくなる。「小万さんの花魁、小万さんの花魁」と、呼ぶ声が走ッて来る。
「いやだねえ、今時分になって」と、小万は返辞をしないで眉を顰《ひそ》めた。
ばたばたと走ッて来た草履の音が小万の室《へや》の前に止ッて、「花魁、ちょいと」と、中音に呼んだのは、小万の新造のお梅だ。
「何だよ」
「ちょいとお顔を」
「あい。初会《しょかい》なら謝罪《ことわ》ッておくれ」
「お馴染《なじ》みですから」
「誰だ。誰が来たんだ」と、西宮は小万の顔を真面目《まじめ》に見つめた。
「おほほ――、妬《や》けるんだよ」と、吉里は笑い出した。
「ははははは。どうだい、僕の薬鑵《やかん》から蒸気《ゆげ》が発《た》ッてやアしないか」
「ああ、発ッてますよ。口惜《くや》しいねえ」と、吉里は西宮の腕を爪捻《つね》る。
「あいた。ひどいことをするぜ。おお痛い」と、西宮は仰山らしく腕を擦《さす》る。
小万はにっこり笑ッて、「あんまりひどい目に会わせておくれでないよ、虫が発《おこ》ると困るからね」
「はははは。でかばちもない虫だ」と、西宮。
「ほほほほ。可愛い虫さ」
「油虫じゃアないか」
「苦労の虫さ」と、小万は西宮をちょいと睨んで出て行ッた。
折から撃ッて来た拍子木は二時《おおびけ》である。本見世《ほんみせ》と補見世《すけみせ》の籠《かご》の鳥がおのおの棲《とや》に帰るので、一時に上草履の音が轟《とどろ》き始めた。
三
吉里は今しも最後の返辞をして、わッと泣き出した。西宮はさぴた[#「さぴた」に傍点]の煙管《パイプ》を拭いながら、戦《ふる》える吉里の島田髷を見つめて術なそうだ。
燭台の蝋燭《ろうそく》は心が長く燃え出し、油煙が黒く上ッて、燈《ともしび》は暗し数行虞氏《すうこうぐし》の涙《なんだ》という風情だ。
吉里の涙に咽《むせ》ぶ声がやや途切れたところで、西宮はさぴた[#「さぴた」に傍点]を拭っていた手を止《とど》めて口を開いた。
「私しゃ気の毒でたまらない。実に察しる。これで、平田も心残りなく古郷《くに》へ帰れる。私も心配した甲斐《かい》があるというものだ。実にありがたかッた」
吉里は半ば顔を上げたが、返辞をしないで、懐紙で涙を拭いている。
「他のことなら何とでもなるんだが、一家の浮沈に関することなんだから、どうも平田が帰郷《かえら》ないわけに行かないんでね、私も実に困っているんだ」
「家君《おとッ》さんがなぜ御損なんかなすッたんでしょうねえ」と、吉里はやはり涙を拭いている。
「なぜッて。手違いだからしかたがないのさ。家君さんが気抜けのようになッたと言うのに、幼稚《ちいさ》い弟《おとと》はあるし、妹《いもと》はあるし、お前さんも知ッてる通り母君《おッかさん》が死去《ない》のだから、どうしても平田が帰郷《かえ》ッて、一家の仕法をつけなければならないんだ。平田も可哀そうなわけさ」
「平田さんがお帰郷《かえり》なさると、皆さんが楽におなりなさるんですか」
「そうは行くまい。大概なことじゃ、なかなか楽になるというわけには行かなかろう。それで、急にまた出京《でてく》るという目的《あて》もないから、お前さんにも無理な相談をしたようなわけなんだ。先日来《こないだから》のようにお前さんが泣いてばかりいちゃア、談話《はなし》は出来ないし、実に困りきッていたんだ。これで私もやっと安心した。実にありがたい」
吉里は口にこそ最後の返辞をしたが、心にはまだ諦めかねた風で、深く考えている。
西宮は注《つ》ぎおきの猪口を口へつけて、「おお冷めたい」
「おや、済みません、気がつかないで。ほほほほほ」と、吉里は淋しく笑ッて銚子を取り上げた。
眼千両と言われた眼は眼蓋《まぶた》が腫《は》れて赤くなり、紅粉《おしろい》はあわれ涙に洗い去られて、一時間前の吉里とは見えぬ。
「どうだね、一杯《ひとつ》」と、西宮は猪口をさした。吉里は受けてついでもらッて口へ附けようとした時、あいにく涙は猪口へ波紋をつくッた。眼を閉《ねむ》ッて一息に飲み乾し、猪口を下へ置いてうつむいてまた泣いていた。
「本統でしょうね」と、吉里は涙の眼で外見《きまり》悪るそうに西宮を見た。
「何が」と、西宮は眼を丸くした。
「私ゃ何だか……、欺《だま》されるような気がして」と、吉里は西宮を見ていた眼を畳へ移した。
「困るなア、どうも。まだ疑ぐッてるんだね。平田がそんな男か、そんな男でないか、五六年兄弟同様にしている私より、お前さんの方がよく知ッてるはずだ。私がまさかお前さんを欺す……」と、西宮がなお説き進もうとするのを、吉里は慌《あわ》てて遮《さえぎ》ッた。「あら、そうじゃアありませんよ。兄さんには済みません。勘忍して下さいよ。だッて、平田さんがあんまり平気だから……」
「なに平気なものか。平生あんなに快濶《かいかつ》な男が、ろくに口も利《き》き得ないで、お前さんの顔色ばかり見ていて、ここにも居得《いえ》ないくらいだ」
「本統にそうなのなら、兄さんに心配させないで、直接《じか》に私によく話してくれるがいいじゃアありませんか」
「いや、話したろう。幾たびも話したはずだ。お前さんが相手にしないんじゃないか。話そうとすると、何を言うんですと言ッて腹を立つッて、平田は弱りきッていたんだ」
「だッて、私ゃ否《いや》ですもの」と、吉里は自分ながらおかしくなったらしくにっこりした。
「それ御覧。それだもの。平田が談話《はな》すことが出来るものか。お前さんの性質《きしょう》も、私はよく知ッている。それだから、お前さんが得心した上で、平田を故郷《くに》へ出発《たた》せたいと、こうして平田を引ッ張ッて来るくらいだ。不実に
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