めたかと思うと、吉里は空恐ろしくなッて、全身《みうち》の血が冷え渡ッたようで、しかも動悸《どうき》のみ高くしている。
「お神さんはどうなすッたんです」と、ややあって問《たず》ねた吉里の声も顫えた。
「嚊《かかア》かね」と、善吉はしばらく黙して、「宿なしになッちあア、夫婦揃ッて乞食《こじき》にもなれないから、生家《さと》へ返してしまッたんだがね……。ははははは」と、善吉は笑いながら涙を拭いた。
「まアお可哀そうに」と、吉里もうつむいて歎息《たんそく》する。
「だがね、吉里さん、私しゃもうこれでいいんだ。お前さんとこうして――今朝こうして酌をしてもらッて、快《い》い心持に酔ッて去《かえ》りゃ、もう未練は残らない。昨夜《ゆうべ》の様子じゃ、顔も見せちゃアもらえまいと思ッて、お前さんに目ッかッたら怒られたかも知れないが、よそながらでも、せめては顔だけでもと思ッて、小万さんの座敷も覗《のぞ》きに行ッた。平田さんとかいう人を送り出しにおいでの時も、私しゃ覗いていたんだ。もう今日ッきり来られないのだから、お前さんの優しい言葉の一語《ひとつ》も……。今朝こうしてお前さんと酒を飲むことが出来ようとは思わ
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