《にん》の人が現われた。鉄漿溝《おはぐろどぶ》は泡《あわ》立ッたまま凍ッて、大音寺前の温泉の煙《けむ》は風に狂いながら流れている。
一声《いっせい》の汽笛が高く長く尻を引いて動き出した上野の一番汽車は、見る見るうちに岡の裾を繞《めぐ》ッて、根岸に入ッたかと思うと、天王寺の森にその煙も見えなくなッた。
窓の鉄棒を袖口を添えて両手に握り、夢現《ゆめうつつ》の界《さかい》に汽車を見送ッていた吉里は、すでに煙が見えなくなッても、なお瞬きもせずに見送ッていた。
「ああ、もう行ッてしまッた」と、呟《つぶ》やくように言ッた吉里の声は顫えた。
まだ温気《あたたかみ》を含まぬ朝風は頬に※[#「石+乏」、第3水準1−88−93]《はり》するばかりである。窓に顔を晒《さら》している吉里よりも、その後に立ッていた善吉は戦《ふる》え上ッて、今は耐えられなくなッた。
「風を引くよ、吉里さん。寒いじゃアないかね、閉めちゃアどうだね」と、善吉は歯の根も合わないで言ッた。
見返ッた吉里は始めて善吉を認めて、「おや、善さんでしたか」
「閉めたらいいだろう。吉里さん、風を引くよ。顔の色が真青だよ」
「あの汽車はどこ
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