る。島田|髷《まげ》はまったく根が抜け、藤紫《ふじむらさき》のなまこ[#「なまこ」に傍点]の半掛けは脱《はず》れて、枕は不用《いらぬ》もののように突き出されていた。
 善吉はややしばらく瞬《またた》きもせず吉里を見つめた。
 長鳴《ちょうめい》するがごとき上野の汽車の汽笛は鳴り始めた。
「お、汽車だ。もう汽車が出るんだな」と、善吉はなお吉里の寝顔を見つめながら言ッた。
「どうしようねえ。もう汽車が出るんだよ」と、泣き声は吉里の口から漏れて、つと立ち上ッて窓の障子を開けた。朝風は颯《さッ》と吹き込んで、びッくりしていた善吉は縮み上ッた。

     七

 忍《しのぶ》が岡《おか》と太郎|稲荷《いなり》の森の梢には朝陽《あさひ》が際立ッて映《あた》ッている。入谷《いりや》はなお半分|靄《もや》に包まれ、吉原|田甫《たんぼ》は一面の霜である。空には一群一群の小鳥が輪を作ッて南の方へ飛んで行き、上野の森には烏《からす》が噪《さわ》ぎ始めた。大鷲《おおとり》神社の傍の田甫の白鷺《しらさぎ》が、一羽|起《た》ち二羽起ち三羽立つと、明日の酉《とり》の市《まち》の売場に新らしく掛けた小屋から二三|個
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