《か》け出した。

     五

 平田は臥床《とこ》の上に立ッて帯を締めかけている。その帯の端に吉里は膝を投げかけ、平田の羽織を顔へ当てて伏し沈んでいる。平田は上を仰《む》き眼を合《ねむ》り、後眥《めじり》からは涙が頬へ線《すじ》を画《ひ》き、下唇《したくちびる》は噛まれ、上唇は戦《ふる》えて、帯を引くだけの勇気もないのである。
 二人の定紋を比翼につけた枕《まくら》は意気地なく倒れている。燈心が焚《も》え込んで、あるかなしかの行燈《あんどう》の火光《ひかり》は、「春如海《はるうみのごとし》」と書いた額に映ッて、字形を夢のようにしている。
 帰期《かえり》を報《し》らせに来た新造《しんぞ》のお梅は、次の間の長火鉢に手を翳《かざ》し頬を焙《あぶ》り、上の間へ耳を聳《そばだ》てている。
「もう何時になるんかね」と、平田は気のないような調子で、次の間のお梅に声をかけた。
「もすこし前五時を報《う》ちましたよ」
「え、五時過ぎ。遅くなッた、遅くなッた」と、平田は思いきッて帯を締めようとしたが、吉里が動かないのでその効《かい》がなかッた。
「あッちじゃアもう支度をしてるのかい」
「はい。西宮
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