観ずれば立派に家にあつて御月見が出来、こみあふ乗物などに乗つてわざわざよそへ出掛けるにも当らないのである。
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凋落も春の盛りのある事も教へぬものの中にあらまし
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子供もだんだん大きくなつて来たが、さて人生につき何を教ふべきであるか。これから伸びゆく人々に人生にも凋落期のあることなどを教へるには当るまい。しかしそれと同時に、春の盛りに比すべき最盛時のあることも教へたくない。教へなくとも子は自覚する。自覚したものでなくては用を為さぬからである。これも尋常の考へではない。尋常なら凋落だけであつて、それでは歌にはならないのである。
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炉はをかし真白き灰の傍に二つ寄せたる脣も見ゆ
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長椅子に膝を並べて何するや恋しき人と物思ひする といふ歌が成長するとこの歌になる。前の場合では作者は第二人とともに歌ふのであるが、この場合は第三者たる「炉」の位置に身を置いて観察するので、何れの場合も一寸目先が変つてゐて珍しい、さうしてそこに新鮮味が生れるのである。
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激しきに過ぐと思ふは涙のみ多く流るゝ自らのこと
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激し過ぎるといふものがあつたらどんなことだらう、又誰の事だらうと考へて見るとそれは自分のことであつた、それは自分の流す涙の多いことであつた。何事につけ晶子さんの涙は流れた、その多過ぎることを御本人が最もよく知つてゐたのである。
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音立てて石の山にも降れよかし下の襟のみ濡らす雨かな
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陰気な五月雨などの降りつづくのをもう沢山だ、降るなら夕立のやうに音をたてて石の山にでも降つたら如何であらう、さうしたら定めて降り足りるであらうに、めそめそ女の泣くやうに降られては人間もあきてしまふといふのである。
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かぶろ髪振分髪の四五人の子を伴ひて春風通る
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これは町家の春の風景で、春著を著飾つた女の子が四五人羽子板か何か持つて急ぎあしで通つた。まさに春風に率ゐられた形だ。風の擬人を作者は幾度か試みたが、この歌が最も成功してゐる様である。
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重ぐるし春尽く我が上に残り止まる心地こそすれ
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春の終りの湿気の多い頭の重い状態である。詩人のものを考へるや、ある時は自己を中心として世界が囘転するやうに考へ、ある時は自己を空虚にして対境のみ存するやうに思ふのであるが、この歌は初めの場合の最も極端な例で、自己の外に何物も見ない形である。詩は常識ではない。常識はまた詩であり得ない。逆にいへば非常識は詩になり得るわけである。それと同じに極端は多くの場合詩になり得るので、この歌では「尽く」がそれに当る。
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高力士候ふやとも目を上げて云ひ出でぬべき薔薇の花かな
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高力士は玄宗皇帝の取巻き、薔薇の花が楊貴妃になつてめをさまし、高力士と呼ぶ形である。薔薇の花の妖艶な姿もここ迄来ればよくあらはれる。
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ソロモンの古き栄華に勝《まさ》るもの野の百合のみと思はぬも我
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「思ふも我」がどこかに略されてゐなければならぬ言葉遣ひである。しからば何と思ふのであらう。勝るもの色々あるだらうが例へば恋などは第一だと思ふも我といふ句が隠れてゐるわけである。読者は各自、自身の「思ふも我」を補足して見なければならぬ。
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さかしげに君が文をば押へたり柏の葉より青き蟷螂
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秋も漸く進んで少し寒くなりかけた頃によく蟷螂が家に上つて来て机の上などを横行することがある。歌はそれを詠んだものである。しかしそれだけでは面白くないから君の文を机にのせ、それが君の文であるから行為はをかしげになり、それで上の句が出来たわけだ。さて「蟷螂」を生かして目に見えるやうにするには如何すればよいか。作者は色彩を限定することによつて目的を達しようとした、即ち「柏の葉より青き」とやつたのである。
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箱根路の明神山にともる火を忘れぬ人となりぬべきかな
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大正九年初めて箱根に遊んだ時の作。この時の宿は塔の沢ではないかと思つてゐる。私は箱根に遊ぶ度にいつもこの歌を思ひ出して口誦する。いかにも箱根らしい調べを持つてゐて、その心持は他の歌を以ては替へられない。
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彫刻師凡骨をかし湯の宿に人をまねびて転寝ぞする
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日本木版の技術を洋画に応用することは寛先生の考案であり、凡骨がそれを実行したのである。恩義に感じた凡骨は死ぬまで與謝野家に出入して変らなかつた。その凡骨は元来職人ではあるし少し変つた所もあり可哀らしい所もあつたので、夫人はこれを愛してよく冗談を云つたりからかつたりしたものである。旅行にもよくついて行つたがこの時も同行した。凡骨に一寸人並みでない所があるので、人並みに昼寝をするのがをかしいのである。
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涙落つ箱根の谷を上る靄またためらはず為すにまどはず
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晶子さんは思ひ切つたことをよく実行した人である。しかしそれをする迄には幾度かためらひ又迷つたことであらう。今箱根の谷から靄の上つて来る様子を見ると少しも躊躇することなく為たいと思ふことを迷はず断行するものの様だ。しかしその前まだ谷に隠れてゐた間は私と同じ様に幾度かためらひ迷つたことであらう、それを思ふと涙がこぼれて来る。
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二三本芒靡けば目に見えぬ支那の芝居の沛公の馬
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この歌なども今では立派なクラシツクとして国宝あつかひを受けて然るべきものであらう。解釈したり解剖したり批判したりする必要は更にない。唯秋風の吹く土堤か何かを逍遥しつつ朗誦すれば用は足るのである。
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恋をする心は獅子の猛なるも極楽鳥のめでたきも飼ふ
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あらゆる恋がさうであらうとは思はれない。ただ作者好みの恋はさうなくてはなるまい。獅子の猛なるとは 春短し何に不滅の命ぞと力ある乳を手に探らせぬ であり 我を問ふや自ら驕る名を誇る二十四時を人をし恋ふる であり かざしたる牡丹火となり海燃えぬ思ひ乱るゝ人の子の夢 である。極楽鳥のめでたきとは うたたねの夢路に人の逢ひにこし蓮歩のあとを思ふ雨かな であり 春の磯恋しき人の網もれし小鯛かくれて潮けぶりしぬ であり 来鳴かぬを小雨降る日は鶯も玉手さしかへ寝るやと思ふ であり 恋人の逢ふが短き夜となりぬ茴香の花橘の花 である。
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形よき維摩居士かな思ふこと我等に似ざる像といへども
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維摩像を正叙したものであらうが一面象徴詩でもある様だ。それは維摩居士の特殊の地位による。維摩は居士即ち俗人でありながら仏法即真理を体得し反つて聖者たる仏菩薩を叱咤指揮して憚らない。そこに既成宗教の嫌ひな晶子さんをしてこの像を喜ばしめる理由が存するやうに思へるからである。
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人聞きて身に泌むと云ふこと云ひぬ物の弾みはすべてわりなし
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かういふ体験は私にもある。唯それが云ひ現はせなかつただけである。それを作者が代つて云つてくれたのである。要するに物の弾みだ、どれ程多くの行為がもののはずみに行はれ、どれ程多くの言説がもののはづみに人の口から出たことであらう。理窟で分ることではない。
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明日といふよき日を人は夢に見よ今日の値は我のみぞ知る
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作者の現在観は幾度か歌はれてゐるが、真正面から堂々と高調してゐる場合が多い。然るにこの歌では珍しく他を顧みて、我以外のものが皆今日を忘れ期待を明日以後にかけて人生を送つて居るのを見て、そんなことでよいのかと警告を発する趣きが見える。私の少し人より余分に人のなし得ない事をやり了せるのは、今日の値を知つてそれを一杯に使ふからである。
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若き日は安げなきこそをかしけれ銀河の下《もと》に夜を明かすなど
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この歌は大正十年版の第十六集「太陽と薔薇」にあるのだから四十三四歳の作である。子女の一人も未だ成人せず、文化学院も出来てゐない時とて、親として又教育家として青年子女に対する必要のなかつた頃であるから極く楽な気持で詠まれて居る。末の弟の夜遊びを喜んで傍観する姉の態度で、何物をか求めてやまない青年の不安な心持にもよい理解が示されてゐる。
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雷の生るゝ熱き湯の音をかたへにしたる朝の黒髪
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大正八年頃の春初めて伊香保に遊んだ時の作。この時は大に感興が動いたと見え秀歌が多い。又その時の興味が後に迄も続いてゐたらしくも思はれる。熱湯のふつふつ涌き上る浴室で朝の髪を梳いてゐる豊かな肉体を讃美する作で、浴泉の歌の多い中にも最も情熱的なものである。
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雪かづく穂高の山と湖と葡萄茶の繻子の虎杖の芽と
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昔は皆とぼとぼと登つていつた峠の尾根の展望で、榛名湖を中心とする早春の快い光景を写真の様に遠くから順に写し最後に脚下のすかんぽの芽に及んで最も精しく之を叙し読者を現場に誘引する手法である。
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遠方の七重の峰と対ひ咲く榛名の山の山吹の花
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これは峠から湖の方に半ば下つた傾斜面に咲いてゐた山吹の花であらう。この歌などは「調べ」がその生命であつて、そこから山吹の花の黄いろい情緒が僅に空中に発散するのである。かういふ歌特有の持味は字余りや口語歌では決して出て来ない。人間生活が伝統の鎖の一小環であると同様、日本歌の伝統も俄に断ち切るわけには行かぬ。
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娘にて倉の板敷踏みたるにまさり冷き奥山の路
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聯想といふか錯覚といふかとても面白い聯想である。こんな聯想、錯覚が浮ぶ丈でその人は既に立派な詩人だと私は思ふ。現に私などにはめつたに浮ばない。それを凡人といひ、浮ぶ人を非凡人といふ。非凡人の数は極めて少いのだから珍重されなければならない。早春の奥山の路の冷さは非凡人の感覚を通して初めて味はふことが出来る。非凡人あるが故に凡人の精神生活はかうして豊かになるのである。
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舟の人唄を唄へばいと寒き夢かと思ふ湖畔亭かな
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わかさぎ釣の舟でもあらう、舟の男が唄を唄ひ出したので湖畔亭の平静が破れ、初めて生命の躍動が感ぜられた、それはしかし寒い夢でも見てゐる以上のものではなかつた、その位春とはいへ山の上は寒かつたのである。
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雫して黒髪のごと美しき洞に散るなり山桜花
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その中に温泉の涌き出す洞窟でもあらうか、上から雫が落ちてぬれ髪のやうな艶をして居るその口へ今や満開の桜の花が二三片散りこむ湯治場の光景である。国破れても、山河あり、伊香保の桜は今年も濡髪色の洞の口へ散るのであらうが、今ではそれを見に行く方法もなし、そんな気分にもなれない。せめて先人の歌でも読んで仄かにその趣きを偲ぶことにしよう。
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野焼の火心につくを思はずば人に涙の流れざらまし
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冬ごもり春の大野を焼く人は焼き足らじかもわが心焼く と大昔から歌はれてゐるやうに、春の野を焼く炎の美しさ早さ激しさ恐ろしさは、若い心を焼き尽す胸の炎の好象徴である。これは作者が榛名山上で野焼を眺め今にもわが心につくかの如き思ひで涙をこぼしてゐる姿を自ら憐むで[#「憐むで」はママ]作つたもの、惻々として人心を打たずには
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