晶子鑑賞
平野萬里
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)苦し人の世の衣《きぬ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)揚羽蝶|小棲《こづま》とる手に
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「虫+車」、第3水準1−91−55]
−−
「新墾筑波を過ぎて幾夜か寝つる」といふ形、即ち五七・七の片歌といふ短い唄がわが民族の間に発生し、それが二つ重つて五七・五七・七の今の短歌の形が出来たのは何時の頃であらうか。少くもそれは数千年の昔のことで、その後今日までこの形式をかりて思ひを抒べた人々は恐らく幾千万の多きに上ることであらう。その内本来無名の民衆を除いて所謂歌人だけを数へても今日分明してゐるもの数千名はあらう。それほど短歌の形式はわが民族の好みに合つてゐるらしく今日でも数万人が朝に夕にこの形式を玩んでゐるやうだ。しかしその多数の歌人、非歌人の中にあつて我が與謝野晶子さん位沢山の歌を詠み、また優れた歌を詠んだ人は先ず無からう。人麻呂歌集の歌が全部人麻呂の作だとしても、貫之、和泉式部、西行、定家、伏見院さては近世の誰彼を以て比べても比較にはならない。二十代からなくなる六十五まで詠みつづけ、万を単位にして数へるほど詠まれたのであるから単に量の上からだけでも驚くに足りるのに、その内少くも二千首は秀歌の部類へ入るべき作で、之を古来の秀歌――私の標準に従ふと千首とはない――に比すると質の上からも一人で全体を遥に凌駕してゐる様に私には思はれる。しかし之を鑑賞する上からいふとその数の多い事が甚しく妨げとなつて、折角の宝も国民大衆とは殆ど交渉なく、少数のお弟子さん達の間にもてはやされ或は僅に好事家の書棚の隅に眠つてゐる位に過ぎない。之は甚しく不合理な事であると共に恐ろしく勿体ないことでもある。今や私達の日本は文化国家として新発足をする事になつたが、何を土台としてその上に何を建つべきであらうか。答の一半は明亮である。曰く近代の反動的風潮を一掃せよ。之を歌に就いて云へば万葉を一掃せよといふ事になる。罪が万葉にあるわけではないが、万葉の悪歌を祖述する反動的日本主義がわるいのである。又古臭い万葉などにこだはつてゐては新らしい詩歌の天地など開けつこはない。我より古を為すといふことが一番よいのであるが、誰にでもは望めない。多くの場合拠り処がほしいであらう。今日の短歌の拠り処は大体二つあつて、一は万葉、一は啄木であるやうだ。啄木は大に宜しいが、万葉は暫く之を捨つべきであらう、その万葉の代りになるものとして私はここに晶子歌をとりあげて之を国民大衆に紹介したい。而してまだ諸君の全く知らない、日本にもこんなよいものがあるといふ事を分つて貰ひ、精神的食糧の一部にも当てて貰ふと共に来るべき新文化建設の礎にもして欲しいと思つて之を書き出すわけだ。さうは云ふものの私にも晶子歌の全体などとても分らない。その分つた人は故寛先生一人位のものだらう。云ひ直せば、晶子歌のほんとうの読者は唯一人よりゐなかつたとも云へるわけだ。私など半分も分るか分らない位である。人間の偉らさが違ふのだから仕方ない。それにしても今日斯ういふ試みをする上に私以上の適任者があるかといへばそれも無ささうである。そこで止むを得ず私が当るのである。
前置はその位にして直ちに歌を引き出さう。私は近年岩野喜久代さんのイニシヤチフによつて「晶子秀歌選」なる一書を編んだ。この本も紙型が焼けたので今では珍本になつてしまつたが、作者が前後四十余年間に作つたといはれる数万首中当時私の見る事の出来た二万余首を資料として二千六百首を選んだものである。のち之を年代順に春夏秋冬二巻に分ち、その前にプレリウドとして「乱れ髪」、「源氏振」の二小巻を付けて之を作つた。私は自分が選んだものながらこんなよい本はないと思つて日夜珍重し讃歎してゐる。私はこの本を台本として青年層の読者の為にはその中から美しいまた不覇奔放な初期の作から順に、然らざる読者層の為には晶子歌の完成した縹渺たる趣きを早く知つて貰ひたく晩年の作から逆に交互に拾つて行くことにする。
[#ここから2字下げ]
黒髪の千筋の髪の乱れ髪かつ思ひ乱れ思ひ乱るる
[#ここで字下げ終わり]
明治三十四年七月、作者二十四歳の時出た第一集「乱れ髪」は一躍著者の文名を高からしめ、その自由奔放、大胆率直な内容と稍唐突奇矯な表現とを以て一世を驚倒させ毀誉相半ばしたものであるが、作者に取つては一生後悔の種ともなつた。罪は主としてその表現法にある。明治の歌を研究する人が出たら分ることと思ふが、私の胡乱な記憶と推定とに従へば、晶子調、之を拡げていへば明星調、いひ替へれば明治新調の成立したのは明治三十六年頃の事で、それ以前を私は発酵時代と名づける。さうして「乱れ髪」はその混沌たる発酵時代を代表してゐるのである。試みに開巻第一の歌 夜の帳にさきめきあまき星の今を下界の人の鬢のほつれよ を取つて見よう。あの星のまたたくのを見てゐると天上界では人々翠帳にこもつて甘語しきりなるを思はせるのに、その同じ時下界の私は一人で悶々としてゐるといふ様な意味に解せられるが、「星の今を」など随分無理な言ひ廻しであり、終りの「よ」なども困りものである。しかし詩の内容と外形とは二にして実は一つのものであるから、作者と雖後になつては之を如何ともしかたがなかつたものと思はれる。その「乱れ髪」の中にも相当調つた歌が少しはある。秀歌選には二十二首採つたが、この黒髪の歌もその一つで、私は之を開巻第一首とした。乱れ髪といふ本の名がどこから来たものか、つひ質さずにしまつたが、或はこの歌などから採られたのではないかとも思はれる。私はさう思つて秀歌選ではその「乱れ髪」の巻のはじめに置いて見たのである。一人孤閨にあつて思ひ乱れる麗人の心緒を髪の乱れに具象した作でそれだけのものであるが、髪の字を畳みかけて三つ重ね、その印象を読者の脳裏に刻みつけつつ、思ひ乱れ思ひ乱れと更に二つ言葉を重ね深く強く言ひ表はして成功してゐると私は思ふ。「かつ」といふ字句もよく利いてゐる。作者は岩波文庫本を自ら選ぶに当つて「乱れ髪」から十四首を採つたが、この歌は這入つてゐない。作者も重く見ず、世間的に有名な歌でもないが、繰り返し朗誦して厭くことを知らない佳作だと私は思つてゐる。
[#ここから2字下げ]
鵠沼の松の敷波ながめつつ我は師走の鶯を聞く
[#ここで字下げ終わり]
病歿の前年昭和十六年の十二月、十二月は作者の誕生月であるから病床にありながら最後とも思はれる内祝もすませ、折から初まつた戦争の事を思へば いくさある太平洋の西南を思ひて我は寒き夜を泣く と歌ひながらも暫くは之を忘れ、心静かに木高い杉並辺には今なほ来鳴く武蔵野の冬の鶯を聞いてゐると鵠沼の松林がまぼろしに見える。上から見ると海の波の様にも見えるといふのであらう。何時の初冬であらうか、私も御いつしよに鵠沼に行つて皆で歌を詠んだことがあるが、この歌を読むと寝ながらその松林を想像に描いてゐる光景が私の脳裏にまざまざと浮んで来る。洵に大家の間吟として相応しい心憎い歌といふべきであらう。その内秀歌選の再版を出す様な折もあらうが、その際は極く少し許り改訂を試みたい。即ち軍に関係したものや満洲開拓の分などは削りたい。さうすると巻尾の歌はこの歌になるであらう。又鵠沼の歌には十三年頃詠まれた 鵠沼は広く豊かに松林伏し春の海下にとどろく といふのがある。
[#ここから2字下げ]
ゆあみして泉を出でしわが肌に触るるは苦し人の世の衣《きぬ》
[#ここで字下げ終わり]
「乱れ髪」の五十八首目にあり、裸体讃美の歌であるから、同集の持つ華麗な彩色の一つに数へられる。その頃明星は一條成美の簡単なスケツチ風裸絵の為に発売を止められた。さういふ時代であつたからこれも珍しかつたのである。集中無難な歌の一つで、それ故に作者も前記十四首の中に入れてゐる。
[#ここから2字下げ]
禅院のそとの高松水色に霙けぶりて海遠く鳴る
[#ここで字下げ終わり]
禅院は鎌倉の円覚寺を斥し、それは作者が好んで訪れ、又故寛先生の忌日なども大抵はここで行はれた因縁の深い寺院である、それを病床で空想に描いた歌で、この海もまた作者に最も親しい海である。鎌倉の海を思ふと直ちに私の口から出て来る歌がある。それは 鎌倉の由井が浜辺の松も聞け君と我とは相思ふ人 といふ歌である。「佐保姫」に出てゐるが、明治四十一年だと思ふ、私の動坂の寓居の歌会で作られたものである。はじめ互選の際作者を知らぬ儘に余りあらはなので私がけなしつけた処、後でそれが晶子さんのだと分つて、私の感じは不思議に表裏一転し忽ち之を讃美するやうになつた。さういふことがあつたので、今でも忘れないでゐる。若い人よ、歌を作るなら大胆に率直にこんな風に作つて見たら如何ですか。
[#ここから2字下げ]
黒髪は王者を呼ぶに力わびず竜馬来たると春の風聴く
[#ここで字下げ終わり]
これは第二集「小扇」(明治三十七年一月出版)の巻尾の歌で、調子の出来上つた後の作であるが、内容は「乱れ髪」を特色づける凛々たる勇気を誇示して恥ぢない歌だ。若い女が何物をも動かさずには置かない自らのはちきれさうな力を讃へるもので、日本文学にはそれまであまりなかつた思想である。春風を竜馬の訪れと聞くなど驚くべき矜貴といふべきである。 罪多き男こらせと肌きよく黒髪長くつくられし我 とか又有名な やは肌のあつき血汐に触れも見でさびしからずや道を説く君 など同じテマに属する一連の作があること昔は誰でも知つて居た。
[#ここから2字下げ]
正月に知れる限りの唱歌せし信濃の童女秋も来よかし
[#ここで字下げ終わり]
久しく病床に伏す人の何物かを待つ気持がこれほどよくあらはれてゐる歌は多くあるまい。又 危しと命を云はず平らかに笑みて[#「笑みて」は底本では「笑ゐて」]我あり友尋ね来《こ》よ とも歌はれてゐる。余り屡※[#二の字点、1−2−22]病床を御尋ねしなかつた私などはこれらの歌を読むとほんとうにすまなかつたといふ気がする。
[#ここから2字下げ]
こし方や我れおのづから額《ぬか》くだる謂はばこの恋巨人の姿
[#ここで字下げ終わり]
之は作者自身の場合を述べたものであるから、事実を知らないとよく分らない。晶子さんが與謝野夫人になるには実に容易ならぬ障礙を突破しなければならなかつた。寛先生の側にも面倒があり、作者は 親兄の勘当ものとなり果てしわろき叔母見に来たまひしかな といふ歌のやうに、父兄から勘当同様の身となり、剰へ新夫妻は恋仇の恐ろしい報復を受けて一時は文壇の地位をさへ危くしたほどであつた。それは即ち一切の因習、道徳、義理、人情、善悪等を超越した行為であつた。それは殆ど宗教的の意義をさへ持つてゐた。或は人間至上主義といつたら反つて当つてゐるかも知れない。晶子さんの人間として偉大な一生はこの強烈な恋の道行から出発し、それを一筋に最後まで押し進めていつたことに尽きる。これだけの予備知識を以て臨めば、この歌の意味もその強い調子も自ら分るであらう。自分自身にさへも頭が下るといふのである。又人間性に対し深く考へさせられるこの一つの場合が簡潔に巨人の姿の一句で表現せられてゐることも適切である。これに依つて晶子さんが自身の場合をどう見てゐたかよく分り、世間の道徳律などを盾に彼此批判すべき筋のものでないことも分つて、悲痛の響をさへ帯びてゐる歌である。さうは云ふものの作者も亦唯の人間だ。その人間らしい歌に 親いろせ神何あらんとぞ思ふああこの心猛くあれかし といふのも見出される。
[#ここから2字下げ]
紅《べに》の萩みくしげ殿と云ふほどの姫君となり転寝《うたたね》ぞする
[#ここで字下げ終わり]
これは病床から偶※[#二の字点、1−2−22]起き上つて坐椅子か何かに助けられ、僅に接し得る外界
次へ
全35ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
平野 万里 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング