もこの高さには至り得ない。これも軽井沢での作。
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鎌の刃の白く光ればきりぎりす茅萱を去りて蓬生に啼く
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このきりぎりすも昼鳴く虫※[#「虫+斯」、第3水準1−91−65]で、今でも玉川の土堤へ行けばこの光景が見られる。しかし見てもなかなか歌へる光景ではない。歌つても人が出て来て虫が主にならない。特に人を抜いて独り鎌の刃を躍らせて居る所が人の意表に出てそこに新鮮味が生れるのである。
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山の池濁る身ならば濁れかし労ふ如し秋雨の中
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雲場の池に秋雨が降り込んで濁るに非ず澄むにあらず落ち付きのない池の面をいたづき労ふものの如く見て、濁るならいつそ濁つてしまへば安心が出来るのにと、女らしいデリケエトな感じを出してゐる歌。
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芝居より帰れば君が文著きぬ我が世も楽し斯くの如くば
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見た所こんな楽しい明るい歌は晶子二万五千首中にも多く類を知らない。しかしほんとうは辛いきびしい人生にも一日位こんな日があつてもよからうといふ意味で思つた程楽しい歌ではないのかも知れない。
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霧積の霧の使と逢ふほどに峠は秋の夕暮となる
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碓氷の坂を登つてゆくと霧の国霧積山から前触れのやうに霧がやつて来て明るかつた天地もいつしか秋の夕暮の景色になつてしまつた。
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飽くをもて恋の終りと思ひしにこの寂しさも恋の続きぞ
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私の恋は遂に達せられた、十分に堪能した、それ故そこで恋は終るものと考へてゐたのに、歓喜の後の悲哀らしい今の寂しさ、これも恋の続きで、少しも終つてはゐなかつたのであるといふわけだが、しかし之は言葉の綾であつて本来の目的は私は今寂しいのだと言ひ度いことにある。しかしそれだけでは歌にならないので前の文句を拈出したのである。
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曙をかつて知らざる裏山の雑木林の夕月夜かな
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軽井沢の奥の三笠山邑の光景で、昼なほ暗い程繁り合つた雑木林の心を曙を一度も知らないといつたので、それによつて影の多い夕月夜の印象がくつきりと浮んで来るのである。
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相あるを天変諭し人さわぎ君は泣く泣く海渡りけん
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寛先生が渡欧されたのは明治の末年のことで詩人の洋行した最初であり、当時としては相当思ひきつた壮挙であつた。日本の詩を世界的の標準にまで高めたい目的を以て行かれたのであつた。しかしそれでは面白くないので、恋に結び付け、自分達の恋は世間の批難を買つた許りか、天変まで起つて一所に居てはいけないと諭してゐる、そこでやむを得ず泣く泣く海を渡つて祖国を離れ私から遠ざかつたのであると斯う説明したわけであらう。
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大昔夏に雪降る日記など読みて都を楽しめり我
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恋などはとうの昔に卒業し学者として静かに書斎に立籠り古書に親しむ作者の俤が其の儘出てゐる。日記は吾妻鏡などでもあらうか。
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海越えんいざや心にあらぬ日を送らぬ人と我ならんため
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良人の跡を追つて渡欧せんと決心した頃の作で、これが晶子さんの一生を通じて持ち続けて変らなかつた処世哲学である。即ち心にもない日を送らぬことで、これが因習から解放されることにもなるのである。大抵の人は因習の囚となつて心にもない日を送つてあたら一生を無駄に過してしまふのに、独り、我が晶子さんは子の愛をさへ犠牲にして心に叶つた日送りをした。普通の日本婦人の何人分かの仕事を一人で、成し遂げたのはその精力が絶倫であつた許りではない、この心掛けがあつてそれを実行に移しえたからであつた。
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呉竹を南の隅に植ゑし[#「植ゑし」は底本では「植えし」]より片寄る春の夕風となる
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夫人の友人の一人で夫人の真価を最もよく了解する詩王高村光太郎君は白桜集の序で、「人知れぬかくれた著想の微妙」なことを挙げてゐるが、この歌などもその一例であらう。春の夕風が片寄つて吹くなどといふ妙想はいくら竹叢を横にしてでも誰も思ひつけるわざではない。
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同じ世の事とは何の端にさへ思はれ難き日をも見るかな
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良人を渡欧させて一人留守をして見ると世の中は正に一変して、何事につけ同じ世の中とは思はれない様な日送りをすることになつた。今に至つてこんな思ひもしなければならぬのだらうか。
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茅が崎は引潮時に蛙鳴きいかに都の恋しかりけん
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七瀬さんの良人即ち唯一人のお婿さんが茅が崎の別邸で若い身空で亡くなつた時之を悼んだ作であるが、その子を思ふ切々たる哀調は永く読むものの心を打たずには置かないであらう。
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その妻を云ひがひなしと憎みつつ罵りつつも帰りこよかし
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一人留守をすることは最早堪へられない。子女養育の大責任を負ひながらその言ひがひなさは何事だと憎まれても罵られても構はない、それよりも帰つて貰ひたいのです。
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崩れたる牡丹昨日の夕風の如何なりしかは我のみぞ知る
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崩れたる牡丹我のみぞ知ると続くのであらう。昨夕のあの風の恐ろしかつたこと、それはそのために崩れた牡丹の私丈が知つて居ることです。さういふ牡丹の述懐で、その調子に一抹の凄味が感ぜられる。
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十の子と一人の母と類ひなく頼み交はすも君あらぬ為め
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何といふやさしい真情の溢れた歌であらう。私はこの歌を取つて、同じ様な子を持つ或は夫を失ひ、或は留守をする若い母親にすすめて日常口誦させたいと思ふ。彼女等はそれによつてどの位慰められることであらう。
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ゆくりなく流れ会ひたるものながら沙にあらめと勿告藻《なのりそ》と抱く
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これは鎌倉の海岸で作者が見賭した一静物を歌つたものではあるが、実は人生そのものの象徴で、あらゆる夫婦あらゆる恋仲はこのあらめとなのりそとに過ぎないのである。
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人の世の掟の上の善き事もはたそれならぬ善き事もせん
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これは晶子さんの道徳標識ともいふべきで、正にこの通りのことを実行された。世の中でいふ善事は凡て之を行つた。しかし同時に世の中で必ずしもよしとしない善事を躊躇せずに行つた。女性解放の如き、男女共学の如き、敬語廃止の如き、死者尊重をやめその代りに生者尊重を力説する如き、御堂関白礼賛の如きその例は無数にあつて因習に囚はれた世人の大多数の肯ぜざる所を善事と信ずるが故に或は行ひ或は説いたのであつた。
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腰越へ向ふ車を見送りて寂し話を海人の継げども
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昭和四年頃暫く鎌倉姥ヶ谷に行つてゐた時の歌。ある日七里が浜へ出て漁師を捕へてしきりに話をしてゐた。その時鎌倉の方から一台の自動車が来て腰越へ向つて去つた。それを見送つて何故か急に淋しい心持がして来た。漁師はそれとも知らずに話を続けてゐる。どうですこの一瞬の捕へ難い光景、それが見事に固定されて人心の糧となつてゐるのである。
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臆病か蛇か鎖か知らねどもまつはる故に涙こぼるる
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本来の晶子調から離れてゐて少し借物の気味があるが、尚よく近代感覚が消化され、再現されてゐる。何か私にまとひついてゐる、何だか分らない、それは臆病といふ心の病かも知れない、気味のわるい生き物の蛇かも知れない、人を恐ろしい牢獄につなぐ鎖かも知れない。それは分らないが何かがまとひついてゐる、さう思ふと涙がぽろぽろこぼれてくる。
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大町の辻読経をば二階にて聞く鎌倉の夕月夜かな
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大町の辻読経といふことが別にあるのかも知れないが、大町の方向で、日蓮辻説法の格で高声に御経を読んでゐるものがあつて、自分の借りてゐる二階まで聞こえて来る。鎌倉は爽やかな初夏の夕月夜だ。それだけのことであるが鎌倉らしい気分が夕月の光のやうにさしてゐる。
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我が造る諸善諸悪の源をかへすがへすも健かにせん
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これも晶子哲学の真髄を示すものであり又自ら策励するものでもある。行為として現はれることなどは抑※[#二の字点、1−2−22]末である。それが善であらうと悪であらうと構はない。それよりそれらの行為の出て来る根本観念だけは何としても健全なものにして置かねばならぬ。私の努力はそのために払はれる。
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海の月前の浜にて人死ぬとなど鎧戸を叩かざりけん
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朝起きて見ると、前の浜に死人があると罵り合ふ声が聞こえる。空には残月が懸つてゐる。ああこの月は昨夜海の上で見てゐたのだ、前の浜で人が死ぬと一言言つて鎧戸を叩いてさへくれたら、直ぐにも起きて助けにいつたものをと詩人は私かに悔ゆるのである。
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家の内薄暗き日もあてやかに白きめでたき雛の顔かな
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三月の雛祭のある曇り日のスナツプで、尋常人の気のつかない細かい感触が捕へられてゐる。
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白き門死なん心の進むべき変に備へて固く閉すらん
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同じく鎌倉での作。海に出る白塗の門が固く閉ざされてゐる。死なうとする心が私にあつてその進行する方向はいふ迄もなくあの門である。そこで変に備へて決して開かないのである。「タンタジイルの死」などの思ひ出される感じである。
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天地の薄墨の色春来れば塵も余さず朱に変りゆく
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一陽来復の心持を色彩を以て現はせば、こんなものであらう。塵も余さずと云つて万有にしみ通る春の恩沢をあらはし、然らざれば平板に陥る処を脱出させた。
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古の匂ひ未来の香を放つ薬かがせよ我が胸迫る
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これも前に幾首か例のあつたやうに言葉の音楽であつて大した意味はない。唯朗々と読み上げて一関[#「一関」はママ]の感動を覚えればそれでよいのである。而してこの歌も既にクラシツクになつてゐる。
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霜月や恋の積るになぞらへて衣重ぬる夜となりしかな
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十一月になつては一枚一枚重ね著をする枚数が増えて行く、とんと年を重ねるにつれて恋の積るのに似てゐると、その頃五十二三でなほ若さの残つてゐた作者はさう感じたのである。序だからいふが、発句では「や、かな」を使はないことになつてゐるさうだ。それには十分な理由がある。然るにこの作者は若い時からお構ひなしに盛に使つてゐる。私はその多くの場合にやはり承服出来ないものがある。例へば 鎌倉や[#「や」に白丸傍点]み仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな[#「かな」に白丸傍点] の如き歌では如何にも耳ざはりである。然るにこの歌の場合に限つて少しも障らないのは如何いふわけであらうか。
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快き秋の日早く来たれかし飽ける男のその証《あかし》見ん
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早く気持のいい秋が来て欲しい。あの男は十分恋を満喫し、もう沢山だといつて寄りつかなくなつてしまつたが、果してそれが事実なら、秋になつたらその証拠があがることだらうから。私の見解では、満喫したと思つたのは暑さのせいで、私はあの男を満足させた覚えはない。それ故気持のよい秋が来たら、腹が急に減つて満腹感などはつひ忘れて必ずまた来るに違ひない。而して逆に満腹して居なかつた証
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