分りますか。私は一読して分らなかつた、多くの場合星を人に擬するや特定の光の強いものとか、色の美しいものとかを斥すやうである。然るにこの歌では満天の星屑尽く君だといふのであるから一寸様子が違つて分らなくなるのである。即ち星一つを一つの人格と見る癖があるので分らなくなるのではないか。もしさういふ先入見を取り去つてしまつたら如何か。作者の相対するものは星を以つて鏤めた冬の夜空全体であつて特定の星ではない。夜空全体が君となつて我に相対するのである、くり返して読む内にそんな風に私には思はれて来たが果して如何か。之も教へを乞ひたい歌の一つだ。
[#ここから2字下げ]
春の磯恋しき人の網洩れし小鯛かくれて潮煙しぬ
[#ここで字下げ終わり]
春の磯を歩いてゐると静かに寄せる波が岩の間にもまれてぱつと小さい潮煙が上がる。おやと思ふと鯛の岩影にかくれる幻像が浮んだ。あの鯛はきつと恋しいと思つた人の網につひはいり損じ、ぷりぷりして岩の間にかくれたのだといふ空想が続いて浮ぶ。若い娘をかすめたいはれのない不合理な幻想ではあるが春の磯の気分がよくあらはれてゐる。
[#ここから2字下げ]
ことさらに浜名の橋の上をのみ一人渡るにあらねどもわれ
[#ここで字下げ終わり]
十年の秋蒲郡に遊んだ作者は、ホテルの方にでも泊られたらしく 遠き世も見んと我して上層の部屋は借れると人思ふらん 又橋では 入海の竹島の橋踏むことを試みぬべき秋の暁 など詠まれてゐるが、その帰途出来たのが、昔なら「浜名の橋を渡るとて」といふ前書のあるべきこの歌である。殊更この橋の上に限つて一人で渡るのではない、どの橋も一人で渡り、どこへ行くのも一人きりだ。それだのにこの橋に限つて私一人で渡つてゐるやうな気がするのは如何いふわけだらう。浜名の橋といふ平安の昔懐しい名所の橋だからそんな気がするのだらうか。こんな風にも取れる歌である。
[#ここから2字下げ]
雲往きて桜の上に塔描けよ恋しき国を俤に見ん
[#ここで字下げ終わり]
これも若い娘の好んで描く幻像あこがれを歌つたものらしく何のこともないが、その気分が歌の調子の上に如何にもよく出て居る。斯ういふ歌を朗誦すると私なども一足跳びに四十年位若くなる。
[#ここから2字下げ]
湖は月の質にて秋の夜の月を湖沼の質とこそ思へ
[#ここで字下げ終わり]
この歌は如何あつても老晶子でなければ作れない歌だ。島谷さんの抛書山荘から上に中秋の明月が懸り下に吉田の大池のある風景を非絵画的に少しも形態に触れることなく、その本質のみを抽出して詠出したもので一寸類の少い作例である。しかも両鏡互に相映じて一塵をも止めざる趣きは同時に達人の心境でもある。
[#ここから2字下げ]
君まさず葛葉ひろごる家なれば一叢《ひとくさむら》と風の寝にこし
[#ここで字下げ終わり]
茫々たる昔の武蔵野の一隅、向日葵朝顔など少しは植ゑられてゐるが、あとは葛の葉の自然に這ふに任せてあるといつた詩人草菴、主人は今日も町の印刷所に雑誌の校正に出掛けて留守、奥さんは子供の世話や針仕事で忙しい、そこへ涼しい風が吹き込だ真夏の田舎の佗住ひの光景であらう。風を擬人する遣方は作者の常套で前にも伶人めきし奈良の秋風があつたが、あとにも亦出て来る。
[#ここから2字下げ]
裏山に帰らぬ夏を呼ぶ声の侮り難しあきらめぬ蝉
[#ここで字下げ終わり]
これは良人を失つた年の初秋相州吉浜の真珠菴で盛な蝉の声を聞きながら、自分も諦めきれないでゐるが、あの蝉の声は、同じく返らぬ夏を呼んで居るのだが、あの何物も抑へ難い逞しさはどうであらう。諦めないといふことも斯くては侮り難い。東洋にもこんな異端者が居たのだと怪しむ心であらう。猶同じ時の蝉の歌に 山裾に汽車通ひ初めもろもろの蝉洗濯を初めけるかな といふのがあり之も蝉の声の描写としては第一級に位するものであらう。また夜に入つては もろともに引き助けつつこの山を越え行く虫の夜の声と聞く といふのがあり、よく昆虫と同化し共栖する作者の万有教的精神が記録されてゐる。
[#ここから2字下げ]
恋人は現身後生|善悪《よしあし》も分たず知らず君をこそ頼め
[#ここで字下げ終わり]
ひたすら思ふ一人にすがりついてひとり今生のみならず来世までも頼んで悔いざる一向《ひたむき》な心を歌つたもの。少し類型的であるとはいへ、しかし作者の日頃強く実感してゐる信仰であり信念であるものを其のまま正述したものであるから自ら力強さが籠つて居り、そこから歌の生命が生れて何の奇もないこの歌が捨て難いものになるのであらう。
[#ここから2字下げ]
松山の奥に箱根の紫の山の浮べる秋の暁
[#ここで字下げ終わり]
下足柄の海岸から即ち裏の方から松山の奥に箱根山を望見する秋の明方の心持が洵に素直になだらかに快くあらはれて居る。こんな歌は、いくら作者でもさう沢山は出来ないと私は思ふ。その一読之亦何の奇もないところに高手の高手たる所因が存するのであらう。清水のやうな風味が感ぜられる。
[#ここから2字下げ]
形てふ好むところに阿ねるを疚しと知りて衰へ初めぬ
[#ここで字下げ終わり]
女は己れを愛するものの為に形づくるといふ教へもあり、麗色は君の好む所であり我が好む所でもある。しかし容色の上に私達の愛は成立してゐるのではない、もつと精神的なつながりであり、全身全霊を以てするものである。だから、容色を整へる為に憂き身をやつすのはどうも面白くない。さういふ考へになつたため我が身に構はなくなつたり急に衰へてしまつた、困つたことになつてしまつた。表の意味はその通りであらう。しかし実は我が身の衰へ初めたのを気にして、それはきつと構はなくなつた為でその外に理由はないのだと自ら言ひわけをする心持を歌つたのではなからうか。
[#ここから2字下げ]
筑摩、伊那、安曇の上に雲赤し諏訪蓼科は立縞の雨
[#ここで字下げ終わり]
十年の八月八ヶ岳の麓の蓼科鉱泉に行かれた時の歌。夏の山の雨が立縞のやうに音を立てて降つてゐる。しかし西の空、その下は筑摩川が流れ、伊那の渓谷が横たはり安曇の連山の起るその西空には真赤な雲が出てゐる。周囲身近かな現象と山国信濃の大観とを併せ抒した素晴らしい歌である。
[#ここから2字下げ]
なほ人は解けず気《け》遠し雷の音も降れかし二尺の中に
[#ここで字下げ終わり]
君と我との隔りは僅に二尺しかない。それに私の出来るだけのとりなしはして見たが、まだすつきりと心が解けない、そして寂しいうとましいこの場の空気は晴れようともしない。ええ一そのこと夕立がして私のきらひな雷でも鳴るがよい。さうすれば局面が展開されよう。それを二尺の間隔へ雷の音が降るとやつたきびきびしさはいつものこととは言へ感歎に値する。
[#ここから2字下げ]
荷を積める車とどまり軽衿《かるさん》[#「軽衿」はママ]の子の歩み行く夕月夜かな
[#ここで字下げ終わり]
カルサンは即ち「もんぺ」で今では日本国中穿たざる女もないが、この間までは山国の女だけしかしなかつた。その「もんぺ」を穿いた女が、着いたトラックから降りて自分だけの荷を担いで夕月の中を我が家へ帰つてゆく。それを作者はなつかしさうに見送つてゐる。これも八ヶ岳山麓の月のある夕の小景で、カルサンといふ洵に響きのよい舶来語を使つて昔のもんぺ姿を抒してゐるのが面白い。今や漸く一般化した婦人の労働服をあらはす言葉としてこれを使つて見たら如何だらう。
[#ここから2字下げ]
わが鏡|撓《たわ》造らせし手枕を夢見るらしき髪映るかな
[#ここで字下げ終わり]
鏡に写つた我が黒髪には紛ふ方なき大きな撓が出来てゐる、その撓を見てゐると影の形に添ふ様に之を造らせた手枕の形が現はれる、さうして鏡は、私が今しがた迄手枕をして横になり物思ひにふけつてゐたのだといふことをはつきり示してくれる。私はその間何を思つてゐたのだらうか。先づそんな様な趣きの歌ではなからうかと思はれる。作者はここでも例によつて我が黒髪をさへ擬人して夢を見させてゐる。
[#ここから2字下げ]
山の霧寂滅為楽としも云ふ鐘の声をば姿もて告ぐ
[#ここで字下げ終わり]
祇園精舎の鐘の声諸行無常の響ありといふ、平家の書き出しから進んで道成寺の文句となり、甚だ耳に親しくなつてゐる鐘声にこもる四句の偈中寂滅為楽の妙境が鐘声といふ音楽に現はれる代りに、絵画的の姿、形をとつて現はれたものが目前の山の霧であつて、即ち仏法最後の涅槃境に外ならないのであらう。
[#ここから2字下げ]
夕には行き逢ふ子無き山中に人の気《け》すなり紫の藤
[#ここで字下げ終わり]
夕方になれば人も通らない淋しい山の径だが、春が来れば紫の藤が咲く。それの艶にやさしい姿を見るとまるで人にでも逢つたやうで懐しい。作者の何にでも注がれる深い同情心がたまたま山中の野生ひの藤に注がれた一例である。
[#ここから2字下げ]
蓼科に山と人との和を未だ得ぬにもあらで物をこそ思へ
[#ここで字下げ終わり]
わたしは山を愛して常に山に遊ぶ、山と人との調和の如きは、私の場合には、直ぐに出来て何の面倒も入らない。この蓼科でも同じことで私と山とは既にすつかり溶け合つてゐて、その間につけこむ空虚はないのである。それだのになほ物思ひに沈むのは如何したことだ。しかしそれは山の罪ではない、別に理由があるからだ。
[#ここから2字下げ]
木の下に白髪垂れたる後ろ手の母を見るなり山ほととぎす
[#ここで字下げ終わり]
皐月が咲き蜜柑の花が咲くやうになると人里近くにも山ほととぎすが出て来てしきりに啼く。その声を聞いてゐると何の理由もなく年老いた母の姿が目の前にあらはれる。それは木の下に白髪をかき垂れ後ろ手をして立つてゐる姿だが、不思議なこともあるものだ。聴覚と視覚と相交錯し相影響する詩人の幻像であるからどうにもしやうがないが、歌が旨ければ読者はつり込まれてついそんな気になるのである。それだけでよいのであらう。
[#ここから2字下げ]
暗き灯を頼りて書けば蓼科も姥捨山の心地こそすれ
[#ここで字下げ終わり]
山の中の電灯の火が恐ろしく暗い。その暗い灯の下で物を書いてゐると、ふと、この蓼科も今の世の姥捨山で年老いた自分はここに捨てられてゐるのだといふ気がして来た。全くありさうな連想でその頃の心の寂しさやるせなさがよくあらはれてゐる。
[#ここから2字下げ]
武蔵野は百鳥栖めり雑木の林に続く茅《かや》草の原
[#ここで字下げ終わり]
この頃では武蔵野の雑木林も漸く切り開かれて残り少くなり、その為に、小鳥中鳥の姿もへり、その声も淋しくなつたが、明治の終り頃、渋谷から玉川へ出る間などは、雑木林と草原とが交錯して小鳥の天国のやうにかしましいものであつた。それを百鳥栖めりとやつたのである。
[#ここから2字下げ]
山寺に五十六億万年を待てと教へて鳴り止める鐘
[#ここで字下げ終わり]
寛先生の百日祭がつゆ晴れの円覚寺で行はれた。恐ろしく蒸し暑い日で法要終了後帰源院で歌を作つたが、暑さに堪へないで外に出て鐘楼へあがつて諸人鐘を撞いた。それで当日は皆鐘の歌がある。これもその一つで、五十六億万年とは弥勒仏出現の日で、その日が来ればまた逢へるかも知れないからそれまでは待てといつて鐘が鳴り止んだ。山寺の鐘の教ふる所であるから正しいのであらうが、さりとては余りに長過ぎる話ではないか、とても待てさうにもない。
[#ここから2字下げ]
海底の家に日入りぬ厳かる大門さしぬ紫の雲
[#ここで字下げ終わり]
これは海の落日を、日の大君のお帰りといふ程の心を晶子さん得意の筆法で堂々と表現したものである。日の入つたあとに紫雲が涌き出して厳かに大門を閉ぢるなど印度の経文にでもありさうだ。
[#ここから2字下げ]
笹川の流れと云ふに従ひて遠く行くとも君知らざらん
[#ここで字下げ終わり]
越後の寺泊から北上して出羽に向ふ車中での作。一人淋しく辺土を旅する心
前へ
次へ
全35ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
平野 万里 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング