ふ意が隠れてゐる。

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秋霧の林の奥の一つ家に啄木鳥《きつつき》飼ふと人教へけり
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 故あつて失踪した人、恐らくは自分を思つてその思ひの遂げられぬことが分つた為に失踪したらしいあの人が、秋霧の深い山の奥の一軒屋にかくれ住んで啄木鳥を友として静かに暮してゐるといふ噂がこの頃聞えて来た。一つの解はかうも出来るといふ見本だ。読者は自己の好む儘に解いてそのすき腹を満たすが宜しい。

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大阪[#「大阪」は底本では「大附」]の煙霞及ばず中空に金剛山の浮かぶ初夏
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 六甲山上から大阪の空を眺めた景色、そこには大阪の煙の上に金剛山が浮んでゐる。あの濛々と空を掩ふ様な大阪の煤煙[#「煤煙」は底本では「媒煙」]もここから見れば金剛山の麓にも及ばないのだと感心した心も見える。その煙霞といつたのは写生で殊更に雅言を弄んだのではない。

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後朝《きぬぎぬ》や春の村人まだ覚めぬ水を渡りぬ河下の橋
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 川上の女の家を尋ねてのあした、村人さへまだ起きぬ早朝、朝靄のほのかに立ち昇る静かな春の水を見ては幸福感に浸りつつ河下の橋を渡つて家路に急ぐ心持であらう。晶子さんの所謂、恋をする男になつて詠んだ歌の無数にあるものの一つだ。

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狭霧より灘住吉の灯を求め求め難きは求めざるかな
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 何といふ旨い歌だ。これも十二年の初夏六甲山上の丹羽さんの別荘に宿られた時の歌。薄霧の中に麓の灯が点々として見られる。あの辺が灘それから住吉と求めれば分る。しかし人事はさうは行かない、求めても分らない、故人がさうだ、だから求めても分らないものは初めから求めないことにした。眼前の夜景によそへてまたもやるせない心情を述べたものである。求めるといふ言葉の三つ重つてゐる所にこの歌の表現の妙も存するのであるが、誰にでも出来る手法ではない。

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君に似しさなり賢こき二心こそ月を生みけめ日をつくりけめ
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 私は君唯一人を思ふ、それだのに君はさうではなく同時に二人を思つてゐるやうだ、それは二心《ふたごころ》と云つて賢いのであらう、丁度天に日と月とがあるやうなものだ。しかし私は二心は嫌ひだ、どこまでも一人に集中する。それが愚かしいことであらうがなからうがと云ふので、之は晶子さんの初めからの信条であり又信仰でもあつた。それ故 やごとなき君王の妻《め》に等しきは我がごと一人思はるゝこと といふ歌もあり又 天地に一人を恋ふと云ふよりも宜しき言葉我は知らなく などいふのもある。

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伊香保山雨に千明《ちぎら》の傘さして行けども時の帰るものかは
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 十一年の春伊香保での作。丁度雨が降り出したので温泉宿|千明《ちぎら》の番傘をさして町へ出掛け物聞橋の辺まで歩いて見た。所は同じでもしかし時は違ふ、過ぎ去つた時は決して帰ることは無いのである。この折榛名湖の氷に孔をあけ糸を垂れて若鷺を釣る珍しい遊びを試みた人があつた。それは 氷よりたまたま大魚釣られたり榛名の山の頂の春 と歌はれ、又 我が背子を納めし墓の石に似てあまたは踏まず湖水の氷 といふ作も残されてゐる。

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思はれぬ人のすさびは夜の二時に黒髪梳きぬ山ほととぎす
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 少し凄い歌で人を詛ふ[#「詛ふ」は底本では「咀ふ」]やうな気持が動いてゐる。山の中の光景で、男に思はれない一人の女が夜の二時に起き出して髪を梳いてゐるとほととぎすが啼いて通つた。華やかなことの好きだつた晶子さんには斯ういふ一面もあつた。 誓ひ言我が守る日は神に似ぬ少し忘れてあれば魔に似る [#空白は底本では「。」]その魔に似る一面で、時には強烈な嫉妬の形を取つて現はれることもあつたやうだ。

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雪|被《かぶ》り尼の姿を作るとも山の愁は限りあらまし
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 箱根の山に雪が降つて尼の様な姿になつた。山の愁はしかしそれだけのもの、形丈のものであらう。しかし生きてゐる限り私の心にある愁は何時迄も続いてゆくといふのである。

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君が妻は撫子※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]して月の夜に鮎の籠篇む玉川の里
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 これも昔の玉川風景の一つ。鮎漁を事とする里の若者をとらへて詠みかけた歌であらう。昼摘んだ川原撫子を簪代りに※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]した若い女房が月下に鮎の籠を編む洵にそれらしい情景が快く浮んで来る。

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返へらざる世を悲しめば如月の磯辺の雪も度《ど》を超えて降る
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 早春大磯に滞在中、雪の余り降らない暖かい大磯には珍しい大雪が偶※[#二の字点、1−2−22]降り出した。返らない世を悲しむ私の心を知つてか知らずにか、この雪の降り方は尋常ではない。度を越した悲哀を形にして私に見せてくれる様でもある。そんな心であらう。この大磯滞在中の作には面白いのが多いから二三挙げよう。丁度節分だつたのでこんな歌がある。 大磯の追儺《つゐな》の男豆打てば脇役がいふ「ごもつともなり」 その大雪の光景は又 海人《あま》の街雪過ちて尺積むと出でて云はざる女房も無し と抒述されてまるで眼前に見る様だ。その雪の上を烏が一羽飛んでゐた、それは直ちに昔故人と一しよに鎌倉で見た烏の大群と比べられ、 この磯の一つの烏百羽ほど君と見つるは鎌倉烏 となり、又東京から、東京は大吹雪ですが、そちらは如何ですかといふ電話が来たのを 東京の吹雪の報の至れども君が住む世の事にも非ず と軽く片付けたのなど何れもそれぞれ面白い。

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半身に薄紅《うすくれなゐ》の羅《うすもの》の衣纏ひて月見ると云へ
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 さて如何いふ光景を作者は描かうとしたのであらうか、これだけでは分らない。読者は好む儘に場合を創り出してよからう。たとへば奥様は余り暑いのでベランダで半裸体になつて月を浴びてゐます、ですから御目にかかれませんと云へとのことですと小間使ひか何かに旨を含めて男を断るといつたやうな場合である。

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我が手をば落葉焼く火にさし伸べて恥ぢぬ師走の山歩きかな
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 自分では最後まで形の上でも若さを失はない様に努めて居られたが、年六十を越えて枯れきつた老刀自の面目はちよいちよいその片鱗を示し、これなどもその一つと見てよからう。

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地は一つ大白蓮の花と見ぬ雪の中より日の昇る時
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 言葉といふ絵具を使つて絵を描く絵師がある。この作者もその一人であるが、若い時から特別の技量を具へてゐて容易に人の之に倣ふを許さなかつた。而して大きな光景を描く時に特にはつきり之が現はれたものである。この歌の如きもその一例である。白皚々たる積雪を照らして金の塊りの様な朝日が登つて来る、まるで一つの大きな白い蓮の花だ。作者の椽大な筆でもこれ以上の表現は先づ出来まいと思はれる極限まで書いてゐる。而して殆ど何時もさうである。

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鹿の来て女院を泣かせまつりたる日の如くにも積れる落葉
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 久し振りで平家をあけてこの行りを読んで見る。斯くて神無月の五日の暮方に庭に散り敷く楢の葉を物踏みならして聞こえければ、女院世を厭ふ処に何者の問ひ来るぞ、あれ見よや、忍ぶべきものならば急ぎ忍ばんとて見せらるるに、小鹿の通るにてぞありける。女院、さて如何にやと仰せければ、大納言佐の局涙を押さへて、岩根踏み誰かは訪はん楢の葉の戦ぐは鹿の渡るなりけり 女院哀れに思召して、此歌を窓の小障子に遊ばし留めさせおはしますとある。建禮門院は史上の女性の内でも作者の好んで涙を注いだ人で、既に前にもほととぎす治承寿永の歌を出したが、平家を詠ずる歌の中にも 西海の青にも似たる山分けて閼伽の花摘む日となりしかな といふのがある。まだあるかも知れない。

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水仙を華鬘《けまん》にしたる七少女氷まもりぬ山の湖
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 赤城山頂の大沼は冬は一枚の氷となつてしまふ。それを切り出して氷室に貯へ、夏になつて前橋へ運んで売り出す、作者が赤城へ登つた時代にも立派な一つの産業になつてゐた。その大沼の凍つた冬の日の光景を象徴しようとしたもので、華鬘は印度風の花簪であるから従つてこの七少女も日本娘ではない、当時藤島武二画伯が好んで描かれたやうなロマンチツクな少女を空想して氷の番をさせたのである。ただ七少女だけは神武の伝説に本づくのであらうから少しは日本にも関係はある。

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家家が白菊をもて葺く様に月幸ひす一村の上
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 十二月の冬の月が武蔵野の葉を落した裸木と家根とを白く冷くしかし美しく照してゐる、それを白菊をもて葺くと現はし、月のお蔭でさうあるのを月幸ひすと云ひ又それを広く村全体に及ぼした差略など唯々恐れ入る。ことに月幸ひすとは何といふ旨さだ。

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恐ろしき恋醒心何を見る我が目捕へん牢舎《ひとや》は無きや
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 恋の醒めた心で見直すと光景は全く一変するだらう。美は醜に、善は悪に、実は虚に、真は偽に変るかも知れない。そんな恐ろしい光景を見ない様に私の目をつかまへて牢屋に入れたいが、そんな牢屋はないだらうかといふのである。目を牢獄につなぐといふ様な思ひ切つた新らしい表現法は当時から晶子さんの専売で誰も真似さへ出来なかつた。

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思ひ出に非ずあらゆる来《こ》し方の中より心痛まぬを採る
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 故人と共に過した四十年の人生は短いものでもなく随分忍苦に満ちた一生ではあつたが、生甲斐のあるやうに思つた年月も少くはない。私は既に年老い心も弱くなつたので、人の様に様々の思ひ出に耽る気力はない。今私の為し得ることは、一切の過去の出来事の中から老の心を痛ませない様なものだけを取り出して見ることである。それが私の思ひ出である。何といふあはれの深い歌であらうか。

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今日もなほうら若草の牧を恋ひ駒は野心忘れかねつも
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 こんなに好い事が重つてゐる、それだのに今日もなほ、野放しだつた頃、親の家に居て仕度い三昧に暮してゐた頃のことが忘られず、不満に似たやうな心も起きる、困つたことねと先づこんな風な心持ではないかと思はれるが、もと象徴詩の解釈だから、それは如何やうとも御勝手だ。

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筆とりて木枯の夜も向ひ居き木枯しの秋も今一人書く
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 之は寛先生の亡くなられたその年の暮に詠まれた歌であるが、之より先 源氏をば一人となりて後に書く紫女年若く我は然らず といふ身にしみる歌が作られて居り更に 書き入れをする鉛筆の幽かなる音を聞きつつ眠る夜もがな といふのもあつて、老詩人夫妻の日常生活がよく忍ばれるのであるが、それがこの場合は年も暮れんとし木枯しの吹きすさぶ夜となつただけに哀れも一しほ深いのである。

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判官と許され難き罪人は円寝ぞしけるわび寝ぞしける
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 判官は判事で男とすべきであらうから従つて罪人は女といふことになる。さてこの罪人の許され難き罪とは何であらうか。しかし裁判は終結しない儘休憩となり、ごろ寝をする、しかしもともと終結してゐないのであるから佗寝以上には進みやうがない。依つてその罪も相当重い罪であることが分るわけである。

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冬の夜の星君なりき一つをば云ふには非ず尽く皆
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