のみこむ。それから、僕はそつと匐ふやうに階段を昇つてゆく。僕が階段を昇つてゆくのと入れちがひに、階下には細君の出てくる足音がきこえる。
 僕は自分の部屋に戻り、ほつと自分に立戻る。だが、すぐに、何かに呪縛されてゐる感覚が甦る。僕は板の上にごろりと横たはり、狭い真四角な箱(二・五米の部屋)を眺める。僕は幽閉されてゐるのだらうか。この小さな、すりガラスの窓から射してくる光は、実験装置の光線かもしれない。人間が何百日間、飢餓感に堪へてゆけるか、衰弱して肺を犯されかけた男が何百日間、凄惨な環境に生きてゆけるものか、――そんなことを測定されてゐるのかもしれない。(しかし、一たい、何のためにだ?)僕はガラス箱のなかの一匹の虫けらなのか。脱けだしたい。逃げだしたい。僕は少しづつ、ぢりぢりしてくる。……
 このガラス箱から僕が出てゆく時、と、僕はまだ板の間に横たはつたまま考へてゐる。と、あの穿きにくいゴム底靴の感覚がすぐ僕の蹠《あしうら》にある。あの靴は僕が上京する時、広島の廃墟の露店で求めたものなのだが、総ゴム底のくらくらする、だぶだぶの靴は、僕のひだるい躯を一そうふらふらさす。そして僕がこの階段下
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