の狭い玄関、一メートル四方にも足りない土間で、その靴を穿いて立上ると、この窮屈な家屋全体の不安定感は僕の靴の踵に吸収されてしまふ。だから、僕は道路の方へ歩きだしても、足もとの地面はくらくらし、遠い頭上から何かサツとおそろしい光線がやつて来さうになつたり、魔のやうな時刻がつきまとふのだが……。
このあたりの道がふと魔法のやうにおもはれてくる。さきほど僕は箱のなかから抜け出して、出勤にはまだ少し早いが、焼跡の往来を抜け溝橋を渡つて、とぼとぼとこの坂路をのぼつた。急な坂だが、そこを登りつめたところに、茫々とした叢がある。僕は何気なく叢の方へ踏み入つた。ふと見ると、坂の下に展がる空間は、樹木も家屋も空も、靄のなかに弱められてゐる。足許の草は黄色に枯れてゐて、薄の穂がかすかに白い。すべてが追憶のやうにうつすらとしてゐるのだ。なにもかも弱々しく、冷え冷えした空気まで実にひつそりしてゐる。これはどうした時刻なのだ?……突然、僕には疑問が涌く。僕はたしか昔何度もこんな時刻や心象を所有してゐた筈だが、それが今僕を迷路に陥し込んだのか。僕はこれから何処へ出掛けて行かうとしてゐるのだらう……(いつもの夜
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