が中学に入る前の年に死んだ。僕は姉の死ぬる少し前、姉の入院してゐる病室を訪ねて行つたことがある。ベッドの中の姉は少し弱々しさうだつたが、不思議に冴えて美しい顔色だつた。澄んで大きく見ひらかれた眼が僕を見つめ、――こんな風な回想をしてゐると、僕はその女のひとが姉だつたのか、それともお前だつたのか、ふとわからなくなるやうだ。――姉は僕に何か話をしてくれさうな様子だつた。僕はその頃ひどく我儘で癇癪持ちの子供だつたが、姉の前でだけはいつも素直な気持になれるのであつた。姉の唇もとが動きだすのを僕は恰度お前の唇もとが動きだすのを待つやうな気持で待つてゐた。やがて、姉は静かに話しだした。僕はすつかりその話に魅せられてゐた。それはアダムとイブの、僕がはじめて聴く創世記の物語であつた。姉の澄んだ眼は、彼女がこの世のほかに、もつと遙かな場所――そんな場所をお前もどんなに熱心に求めてゐたか――を疑はない眼つきだつた。そしてそれはまつすぐ僕にも映つて来た。姉の話が終つたとき僕は何か底の底まで洗ひ清められてゐた。急に僕の眼には今迄と世界が変つて来たやうにおもはれた。その夕暮、僕がその病院を出て家に戻つてくる途中
前へ 次へ
全27ページ中25ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング