進んでゐるのだ。ふと僕の耳に僕のゴム底靴の鈍い喘ぐやうな音がきこえる。いつのまにか、さつきの美ごとな靴音は消えてゐる。
僕はがくんと突離されたやうな気持だ。路は急な下り坂になつてゐる。そこから茫とした夜の塊りが見える。僕の帰つて行く道もあの中にある。僕は溝の橋を渡つて、仄暗い谷底のやうな路を進んでゆく。……と、僕のなかには、あの家の前の暗い滑りさうな石の段々が、夢のなかの情景のやうに浮んでくる。あの石段と僕のふらふらのゴム底靴が触れあふ瞬間、僕はあの、しーんとし息を潜めたガラスの家の怒りが、こちらへ飛掛つて来さうな気持がするのだ。……が、僕は今もうその石段のところまで来てしまつてゐる。ひつそりとした、階下も二階の方にもまるで灯が見えない。停電らしいのだ。僕はおどおどと段々を踏んでゆく。僕は喘ぐやうに、その家の扉をそつと押す。狭い狭い入口に屈んで、難しい姿勢で靴の紐を解く。この棒のやうに重い脚、ふらふらの頭、僕の心臓は早く打ち、息が苦しげなのがわかる。僕はそつと靴を下駄箱に入れて、ふわふわと立上る。それから僕の眼は暫く暗闇のなかでぼんやり戸惑つてゐる。
ガラス壁の側にあるテーブルに白
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