ないやうに、斃れないやうに、ふらふらの軽い、今日の勤めも果たした。それが今の僕の生活《くらし》を支へてくれるのではないのに、とにかく今日の今日も耐へて来た。それがとにかく僕に安心を与へてゐるのだらうか。人間のいきれ、……惨劇のなかに死んで行つた無数の人間、……吻と今、僕をつつんでゐる人間のいきれ、僕を滅茶苦茶に押してくる人間、人間の流れ――それが斃れさうな僕を逆に支へてゐるのかもしれない。……
僕は人間の流れに押出されて、電車から降りる。人間の流れは広い鋪道を越えて、急な石段をぞろぞろ上つてゆく。僕もそろそろと石段を上つて行く。ほの暗い路が三つに岐れて、人間の流れも三つに岐れる。僕はいつもの谷間のやうな、ひつそりした、ゆるい坂路を歩いてゐる。僕のまはりに疎らになつた人間の足音がまだ続いてゐる。僕の少し前方でききとれる、コツコツといふ固い靴の音……。帰宅を急ぐ足どりの音……。あれはどういふ人間なのだらうか。はつきりとリズムを刻んで進んでゆく静かな靴の音……。僕はそれに惹きつけられて、その後について歩いてゐる。コツコツといふ軽い快げな靴の音が僕の耳に鳴る。あれは明確な目的から目的へ静かに
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