ひきつて黒板拭きで消してゆく。おびただしい白い粉が僕のまはりに散乱する。それは今、僕に吸はれてゐる。と、僕は朝の咳の発作をおもひだす。淡い淡いあぢさゐの花……。疲れないやうに、疲れないやうに、と軽い、軽い、祈り……。僕はふらふらと授業を続けてゐる。ベルが鳴る時間を待ちかまへてゐる。その時刻は電燈の光のなかにちらちらしてゐる。そして、ほんとにベルが鳴る。僕は手探りで階段を降り教員室へ戻つてくる。
蝙蝠傘を提げて、僕は坂を下りてゆく。坂の下の表通りの闇のなかの灯が眩しく、それは僕を吸ひ込みさうだ。夜の闇色と感触がずしんと深まつてゐて、今はまるで海のやうだ。僕はそのなかを泳ぐやうにして歩く。僕は電車通を越えて、省線駅に来る。暗いホームは人で一杯だが、電車は容易にやつて来ない。突立つてゐる僕の脚は棒のやうだ。突立つてゐる、昨日も今日も、それから恐らく明日も……。明るい灯のついた満員電車が僕の前で停まる。僕は棒のやうに押込まれてゆく。僕の胸を左右から人間が押してくる。押してくる人間のいきれが僕をつつんでゐる。僕は何を考へてゐるのだらうか。Can I swim? Can I swim? ……疲れ
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