も、垂れ下つてゐる。あれは一たい何なのだらう。時間があんなところに痕跡を残してゐるのだらうか。
 昔、僕がこの大学の予科に入学した頃は、この三階の建物はまだ新しく、僕には何か大きな素晴しい城砦のやうな気持がした。ある天気のいい日曜日の一日を僕は蓮華の咲いてゐる郊外の河岸をぶらぶらと歩いた。その翌朝もまるで磨きたてのやうに美しい朝だつた。僕はこの三階のバルコニーに立つてゐた。むかふに見える大きな邸の煉瓦塀や鬱葱と繁つてゐる楠の巨木や空を舞つてゐる鳶に僕は見とれてゐた。すると、僕はそれからのすべてを領有してゐるやうな幸な気分だつた。ふと僕の側に一人の友人がやつて来た。が、僕と彼とはお互に暫く黙つたまま同じ景色のなかにゐた。「僕たちの時代が来るね」ふと彼は呟いた。僕たちはその頃お互を立派な詩人になれると思ひ込んでゐたし、祝福はちやんと約束してあるやうにおもへた。
 僕の立つてゐる窓の破れから、冷たい風が襟首を撫でる。僕は声を出してプリントを読みあげる。I can swim, Can I swim? You can ……喋りながら教室を歩く。なるべく疲労しないやうに、ふらふらと軽く……。それか
前へ 次へ
全27ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング