は珍しいのだらうか。部屋の隅にゐた小使がベルを振りだす。と、みんなそはそは廊下に出て行く。僕は壁に掛けてある出席簿を取り、箱の中からチヨークを二本把む。僕はそろそろ廊下に出て、三階まで階段を昇つてゆく。灯の点いてゐない階段は真暗で、僕は手探りで昇つてゆく。茫漠とした廊下の突当りの教室に灯が洩れてゐる。僕はそこの扉を押す。電燈の光のなかに四五十人の顔が蠢めいてゐる。僕は教壇の椅子に腰を下ろして、出席簿を机の上におく、パタンとそれをひらく。それから僕は急しげに生徒の名前を読みあげてゐる。僕の声が僕の耳にきこえる。(おや、こんな声だつたのか)これは僕が今日はじめて人間にむかつて声を出してゐるのだ。僕はくるりと後向きになつて、塗りのわるい黒板にプリントの字を書いてゆく。I can swim, Can I swim? You can swim, Can you ……ふと僕はチヨークを置いて、教壇を下りる。煤けた壁際に添つて、教室の後の方へ歩いてゆく。僕は眼をあげて黒板に書いてある自分の字を眺め、それから煤けて真黒の天井壁を眺める。天井からは何か黝ずんだ蜘蛛の巣のやうなものが、いくすぢも、いくすぢ
前へ 次へ
全27ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング