お前の病室はあつたが、お前の病室と僕との距離に、いつも透明な光線が滑り込んでゐた。僕は自分の靴音を琺瑯質の無限の時間の中に刻まれる微妙な秒針のやうにおもひながら歩いてゐた。それから、僕がお前の病室を出て、坂の上に立つと、晩秋の空気は刻々に顫へて薄暗くなつてゆき、靄のなかには冷やかな思考と熱つぽいものが重なりあつてゐた。僕はあの靴の音をおもひ出さうとしてゐるのだ。
 僕の歩いて行く方向に、今僕の行く学校の坂路がある。その高台に建つX大学の半焼の建物はひつそりとして夕暮のなかに見える。かすかに僕はあの病院へ通ふ坂路を歩いてゐるやうなつもりなのだが、ふと、もの狂ほしい弾力の記憶がこの坂から甦つてくる。学生の僕はこの坂路を歩くとき、突然あたり一杯に生命感が漲ることがあつた。僕は何かに抵抗するやうに、何かに僕自身を叩きつけるやうな気分に駆られて、もの凄い勢でこの坂を登つたものだ。五月の太陽は石段の上に輝いてゐて、あたりには大勢の学生がぞろぞろ歩いてゐた。坂に添ふ小さな溝がピカピカ光り、学生達は瀟洒な服装をしてゐた。クラクラする僕の頭上には高台の青葉が燃えてゐた。ほとんど僕は風のなかを驀進するやう
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