から見憶えのある顔が二つ三つ僕を追ひこす。夜学の生徒なのだ。僕はいつあの生徒たちを憶えたのかしら……。瞬間、僕は教師のつもりになつてゐる。と、僕はずしんとする。剥ぎとられて叩きつけられた感覚だ。それが僕をふらふらさせる。と僕は何か見憶えのあるものの前に立ちどまつてゐる。新築の花屋だ。僕はシヨーウインドに近よる。僕はみとれる。みとれてゐる自分にみとれる。玻璃越しに見える花々がまるで追憶そつくりだ。さうだ、追憶はいま酒のやうに僕をふらふらさす。それに、このゴム底靴や凹凸の地面が、一そうふらふらさす。僕は何かもつと固い手応へを求めてゐるやうだ。何か整然とした一つの世界が僕に見えてくるやうだ。僕のまはりにまつはる雲母色の空気は殆どさきほどから、それを囁いてゐるのではないか。……その頃お前が入院してゐた病院は、野らも海も一目に見下ろせる高台の上にあつた。僕は澄んだ秋の光線のなかを、そこの坂の固い鋪道を靴の音を数へながら歩いてゐた。お前の病態は憂はしかつたし、僕の生きてゐる眼の前は暗澹としてゐたが、不思議に僕のなかには透明な世界が展がつて来た。坂の上に建つ、その殿堂のやうに大きな病院の、そのなかに
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