ない場所だが、僕にとつてはずつと以前から知つてゐる一角なのだ。この焼残つた露地のつづきに、唐黍畑や、今、貧弱なバラツクの見えてゐるあたりに、昔、僕の下宿はあつた。かういふ曇つた夕暮前の時刻に、学生の僕はよく下宿を出てふらふらと歩きまはつた。薄弱で侘しい巷の光線は僕のその頃の心とそつくりだつた。僕の眼は大きな工場の塀に添つて、錆びついた鉄柱や柳の枯葉にそそがれた。そんな傷々しいものばかりが不思議に僕の眼を惹きつけてゐた。その頃、僕には友人がない訳ではなかつたし、僕の境遇は不幸といふのではなかつた。だが、何故かわからないが、僕はこの世のすべてから突離された存在だつた。僕にとつては、すべてが堪へがたい強迫だつた。低く垂れさがる死の予感が僕を襲ふと、僕は今にも粉砕されさうな気持だつた。僕はガラスのやうに冷たいものを抱きながら狂ほしげに歩きつづけた。するとクラクラとして次第に頭が火照つたものだ。
銀行か何かだつたらしい石段の焼残つた角から僕は表通りに出る。ここは殆ど焼跡の新築ばかりだ。電車の軌道は残されてゐるが電車の姿は見えない。僕のまはりにまつはる暮色と人通りはそはそはと動いてゆく。僕の背後
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