のメルヘンなら、今も僕のゴム底靴の踵にくつついてゐる。メルヘン?……だが、今はもつと別の時刻なのだ。もつと美しい、たとへやうもなく優しげなものが今僕のなかに鳴りひびいてゐる。誂へむきに今この路はひつそりとして人通りが杜絶えてゐる。眼の前にある空気はこまかに顫へて、今にも雨になりさうなのだ。僕はじつと何かを怺へてゐる。だが時刻は刻々に堪へ難くなる。……地のはてにある水晶宮がふと僕の眼に見えてくる。その透明な泉に誰か女のひとが、ひつそりと影をうつしてゐる。その姿が僕には、だんだんはつきりわかつてくる。その顔は何ごとかを堪へ、じつと何ごとか祈ってゐるのだ。
僕は感動に張裂けさうになり空を眺める。泉にうつつてゐる女の顔はキラキラとゆらめきだす。たしかに、その誰ともわからぬ女のひとは熱い涙とやさしい笑みをたたへたまま凝と雲のなかにゐるのだ。靄を含んだ柔らかい空気……それは僕の眼の前にある。僕の頬の下にも涙を含んだ顫へる靄が……。ふと、僕はいつのまにか、いつもの見なれた路を歩いてゐる自分をとりかへしてゐる。僕はやはり夜学へ行くのか……。だが、さつき僕を感動させたものはキラキラとまだ何処か遠方でゆらめいてゐる。ゆらめいてゐる。それはかすかに僕につき纏つてくる。僕はお前のことを考へてゐるのだらうか、お前に話しかけてゐるのだらうか、死んだお前が僕に話しかけてくるのだらうか。
僕は駅前の雑沓が一目に見下ろせる焼跡の神社の境内に来てゐる。僕の足許のすぐ下に鋪道が見え、駅の建物は静かに曇つてゐる。僕の目はごたごたした家屋と道路の果てにある薄い一枚の白紙のやうな海にむかふ。その白紙のなかに空と海の接するあたりに、かすかに夢のやうな紫色の線をさぐる。陸地なのだ。僕が昔お前と一緒に暮してゐた土地なのだ。あそこの海岸から僕はよく空と海の接するあたりに黒い塊りを見てゐたが、それが今僕の立つてゐる地点なのだらう。やはり今でも向側の陸地から、こちら側の陸地を眺めてゐるものがゐるやうだ。それはやはり僕なのだらうか。それなら、お前はまだあの土地のあの家の病床で僕のかへりを待つてゐるのかもしれない。……僕の視線はそつと朧なものを撫でまはし、それから、とぼとぼと神社の境内を出て行く。……
急な石段と忙しげな人通りが僕をゆるやかな追憶から切離す。僕は不安定なゴム底靴で弱々しい姿勢をピンと張りあげようとする。罹災以来、僕にのこされた、たつた一つの弱々しい抵抗の姿勢……それが僕に立戻つてくる。雑沓が僕をかすかな混乱に突きおとす。僕は前後左右から押されて駅のホームを歩いてゐる。生きる場所を喪つた人間がぐんぐん僕の方へのしかかり押してくる。僕は電車に押し込まれてゐる。僕は押されとほされてゐる。生きる場所を喪つた人間ならむしろ僕なのだが、僕の肩の骨が熱く疼く。僕の頤のすぐ側にある知らない人間の肩。ぎつしり詰つた肩のむかふから洩れてくる呻き……。物質の重量に挿まれて僕は何処かへ紛れ込んでしまひさうだ。かうした瞬間、かうした瞬間は何回繰返されてゐるのだらう。僕が死ぬる時、かうした窮屈な感覚はやはり痕跡を残すかもしれない。死んでゆく僕の幻覚に人間の固い肩が重なり、飢ゑてふらふらの僕を搾木でしめあげ……。靴の底にゆれる速度で、僕はときどきよろめく。かうした瞬間、僕は何を考へてゐるのだらう。僕は物質……肩は物質の……。やがて電車は僕の降りる駅に来て僕を放り出す。
僕は人間の群に押されて、駅の広場に出てゐる。ここはもうすつかり夕暮のやうだ。僕は電車通を越えて、焼残りの露地に入る。ここは死んだお前のあまり知らない場所だが、僕にとつてはずつと以前から知つてゐる一角なのだ。この焼残つた露地のつづきに、唐黍畑や、今、貧弱なバラツクの見えてゐるあたりに、昔、僕の下宿はあつた。かういふ曇つた夕暮前の時刻に、学生の僕はよく下宿を出てふらふらと歩きまはつた。薄弱で侘しい巷の光線は僕のその頃の心とそつくりだつた。僕の眼は大きな工場の塀に添つて、錆びついた鉄柱や柳の枯葉にそそがれた。そんな傷々しいものばかりが不思議に僕の眼を惹きつけてゐた。その頃、僕には友人がない訳ではなかつたし、僕の境遇は不幸といふのではなかつた。だが、何故かわからないが、僕はこの世のすべてから突離された存在だつた。僕にとつては、すべてが堪へがたい強迫だつた。低く垂れさがる死の予感が僕を襲ふと、僕は今にも粉砕されさうな気持だつた。僕はガラスのやうに冷たいものを抱きながら狂ほしげに歩きつづけた。するとクラクラとして次第に頭が火照つたものだ。
銀行か何かだつたらしい石段の焼残つた角から僕は表通りに出る。ここは殆ど焼跡の新築ばかりだ。電車の軌道は残されてゐるが電車の姿は見えない。僕のまはりにまつはる暮色と人通りはそはそはと動いてゆく。僕の背後
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