から見憶えのある顔が二つ三つ僕を追ひこす。夜学の生徒なのだ。僕はいつあの生徒たちを憶えたのかしら……。瞬間、僕は教師のつもりになつてゐる。と、僕はずしんとする。剥ぎとられて叩きつけられた感覚だ。それが僕をふらふらさせる。と僕は何か見憶えのあるものの前に立ちどまつてゐる。新築の花屋だ。僕はシヨーウインドに近よる。僕はみとれる。みとれてゐる自分にみとれる。玻璃越しに見える花々がまるで追憶そつくりだ。さうだ、追憶はいま酒のやうに僕をふらふらさす。それに、このゴム底靴や凹凸の地面が、一そうふらふらさす。僕は何かもつと固い手応へを求めてゐるやうだ。何か整然とした一つの世界が僕に見えてくるやうだ。僕のまはりにまつはる雲母色の空気は殆どさきほどから、それを囁いてゐるのではないか。……その頃お前が入院してゐた病院は、野らも海も一目に見下ろせる高台の上にあつた。僕は澄んだ秋の光線のなかを、そこの坂の固い鋪道を靴の音を数へながら歩いてゐた。お前の病態は憂はしかつたし、僕の生きてゐる眼の前は暗澹としてゐたが、不思議に僕のなかには透明な世界が展がつて来た。坂の上に建つ、その殿堂のやうに大きな病院の、そのなかにお前の病室はあつたが、お前の病室と僕との距離に、いつも透明な光線が滑り込んでゐた。僕は自分の靴音を琺瑯質の無限の時間の中に刻まれる微妙な秒針のやうにおもひながら歩いてゐた。それから、僕がお前の病室を出て、坂の上に立つと、晩秋の空気は刻々に顫へて薄暗くなつてゆき、靄のなかには冷やかな思考と熱つぽいものが重なりあつてゐた。僕はあの靴の音をおもひ出さうとしてゐるのだ。
 僕の歩いて行く方向に、今僕の行く学校の坂路がある。その高台に建つX大学の半焼の建物はひつそりとして夕暮のなかに見える。かすかに僕はあの病院へ通ふ坂路を歩いてゐるやうなつもりなのだが、ふと、もの狂ほしい弾力の記憶がこの坂から甦つてくる。学生の僕はこの坂路を歩くとき、突然あたり一杯に生命感が漲ることがあつた。僕は何かに抵抗するやうに、何かに僕自身を叩きつけるやうな気分に駆られて、もの凄い勢でこの坂を登つたものだ。五月の太陽は石段の上に輝いてゐて、あたりには大勢の学生がぞろぞろ歩いてゐた。坂に添ふ小さな溝がピカピカ光り、学生達は瀟洒な服装をしてゐた。クラクラする僕の頭上には高台の青葉が燃えてゐた。ほとんど僕は風のなかを驀進するやうな気持で歩いてゐた。
 僕は今、よろよろと坂路を登つてゆく。僕の細長い影は力なく仄暗い風のなかにある。僕は殆ど乞食のやうな己れの恰好を疑はない。ここの石坂で僕はそつと煙草の捨殻を拾ひとることもあるのだ。そんなときの僕の姿は……。僕は後から後から次々に生徒に追越されてゐる。足許は既に暗い。ふと僕はそはそはしてくる。向うのコンクリートの三階建の校舎は生徒の群でざわざわしてゐる。僕の歩きかたも少しせかせかしてくる。僕は一階の廊下を廻つて、教員室の扉を押す。電燈の点いてゐるゴタゴタした部屋の片隅に僕は蝙蝠傘を置く。それから中央にある大きなテーブルに凭掛る。これが僕たち教員のテーブルなのだ。僕は出勤簿に印を押す。お茶を啜る。空腹がふと急に立ちもどつてくる。僕のまはりに教師たちが何か話しあつてゐる。電燈の色で見る先生の顔は何と侘しい暈なのだらう。僕はもう一杯お茶を啜る。今、廊下の外で頻りにドタドタ靴の音がしてゐる。誰か生徒が僕の側を通りすぎて、戸棚のところに行く。電球を持つて行くのだ。ああして生徒は毎日、電球を教室に持つて行つて着けたり、外づして持つて戻つたりするのだ。だが、そんなことが餓じい僕には珍しいのだらうか。部屋の隅にゐた小使がベルを振りだす。と、みんなそはそは廊下に出て行く。僕は壁に掛けてある出席簿を取り、箱の中からチヨークを二本把む。僕はそろそろ廊下に出て、三階まで階段を昇つてゆく。灯の点いてゐない階段は真暗で、僕は手探りで昇つてゆく。茫漠とした廊下の突当りの教室に灯が洩れてゐる。僕はそこの扉を押す。電燈の光のなかに四五十人の顔が蠢めいてゐる。僕は教壇の椅子に腰を下ろして、出席簿を机の上におく、パタンとそれをひらく。それから僕は急しげに生徒の名前を読みあげてゐる。僕の声が僕の耳にきこえる。(おや、こんな声だつたのか)これは僕が今日はじめて人間にむかつて声を出してゐるのだ。僕はくるりと後向きになつて、塗りのわるい黒板にプリントの字を書いてゆく。I can swim, Can I swim? You can swim, Can you ……ふと僕はチヨークを置いて、教壇を下りる。煤けた壁際に添つて、教室の後の方へ歩いてゆく。僕は眼をあげて黒板に書いてある自分の字を眺め、それから煤けて真黒の天井壁を眺める。天井からは何か黝ずんだ蜘蛛の巣のやうなものが、いくすぢも、いくすぢ
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