魔のひととき
原民喜
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)肌理《きめ》のこまかい
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)どきり[#「どきり」に傍点]
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ここでは夜明けが僕の瞼の上に直接落ちてくる。と、僕の咽喉のなかで睡つてゐる咳は、僕より早く目をさます。咳は、板敷の固い寝床にくつついてゐる僕の肩や胸を揉みくちやにする。どんなに制しようとしても、発作が終るまでは駄目なのだ。僕は噎びながら、涙は頬にあふれる。だらだらと涙を流しながら、隣家の庭に咲いてゐる紫陽花の花がぽつと朧に浮んでくる。僕は泣いてゐるのだらうか、薄暗い庭に咲き残つてゐる紫陽花は泣かないのだらうか。死んだお前も、僕も、それから、このむごたらしい地上には、まだまだ沢山、こんな悲しい時刻を知つてゐる人がゐるはずだ。……
発作が終ると、僕は寝たまま手を伸べて枕頭の回転窓の軽いガラス窓を押す。すると、五インチほどの隙間から夜明けの冷んやりした空気が、この小さなガラス箱(部屋の中)に忍び込んでくる。その少し硬いが肌理《きめ》のこまかい空気は僕の顔の上に滑り込んでくる。僕の鼻腔から僕の肺臓に吸はれてゆく。発作の終つた僕は、何ものかに甘えながら、もう一度睡つてゆかうとする。(空気つて、いいものだなあ。さうだよ、もう一度ゆつくりおやすみ。こんな透明な夜明けがあるかぎり……)僕の吸つてゐる空気はだんだん柔かくなつて、僕は羽根のやうに軽くなつてゆく。小さな窓から流れてくるこの空気は無限につづいてゐる。死んだお前も、僕も、それから一切が今むかふ側にあるやうだ、僕は……。僕は……。僕は安心して睡つてゆけるかもしれない。僕は医やされて元気になれるかもしれない。安心してゐよう。あんな優しい無限の透明が向側にあるかぎり……。僕は……。
突然、僕の耳に手押ポンプの軋む音が、僕をずたずたに引裂く。窓のすぐ下の方にある隣家の手押ポンプだ。それが金切声で柔かい僕の睡りを引裂く。バケツからザアツと水が溢れてゆく。僕の頭は水の音とポンプの音でひつくり返り滅茶苦茶にゆすぶられてゐる。僕は惨劇のなかに生き残つた男だらうか、僕は惨劇の呻きに揺さぶられてゐるのではないか。……固い寝床にくつついてゐる自分の背なかが、かちんと僕に戻つてくる。僕は宿なしの身の上をかちんと意識する。それは朝毎に甦つてくる運命のやうに僕の額に印されてゐるのではないか。漂泊、流浪――そんな言葉ではない。でんぐりかへつて、地上に墜落したのだ。僕の額の上を外のポンプの音が流れ、惨劇の影がゆれてゐる。僕はお前と死別れると、その土地の家を畳んで、郷里の広島へ移つた。すると、あの惨劇の日がやつて来た。それから、僕は寒村に移つて飢餓の月日を耐へてきた。それから僕はその村を脱出するやうに、この春上京して来た。しかし、僕を容れてくれた、ここの家も……。
ふと、僕はさつきの発作をおもひだして、どきり[#「どきり」に傍点]とする。とこの固い寝床にくつついてゐる自分の背なかに、階下のありさまが、一枚の薄い天井板を隔てて、鏡のやうに透視されてくる。階下はまだ、しーんとしてゐるのだが、この冷んやりした奇怪なガラスの家の底には、何とも云ひやうのない憂悶が籠つてゐるのだ。たしかに、僕はあの咳を、この家の細君の耳に聴きとられたやうな気がする。と、僕には、このガラスの家全体が、しーんとして僕の息の一つ一つまで聴きとる装置のやうにおもへてくるのだ。
前から僕はこの家の主人に、医者に診てもらへと、そつと注意されてゐた。恐る恐る僕は一度、病院の門を潜つた。医者は衰弱してゐることのほかは何も云つてくれなかつた。それはむしろ僕を吻とさせた。このやうな恐ろしい飢餓の季節に、文無しの僕がどのやうな養生ができるのか。僕は、疲労しないやうに、疲労しないやうに、と、飢ゑ細つてゆく自分の体をなるべく、ただ静かにしてゐるだけであつた。だが、僕を視るこの家の細君の眼は、――それは僕がこの家で世話になりだした最初から穏やかではなかつたやうだが――次第に棘々しくなつてゐた。澱粉類の配給がばつたり杜絶えて、菜つぱと水ばかりで胃の腑を紛らしてゆく日がつづいてゐた。と、ある日たうとう、この家の細君の癇癪は爆発した。僕は地べたに叩き伏せられた犬のやうな気持がした。宿なしの罪業感が僕を発狂させさうだつた。僕は怯えはじめた。ひとりでに僕は、この家の人たちから隔離の状態に置かれた。主人は僕を憐むやうな眼つきで眺めてくれたが、もう遠慮がちに何も語らなかつた。細君は僕と顔を逢はすことを明かに避けてゐた。ただ内側に押し潰されて籠るものが、この家全体の無気味なものが、無言のまま僕をとりかこんだ。そして、これは僕がこの部屋にゐる限り絶えることのない苛責なのだ。
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