この低い白い脆さうな天井、……僕の寝てゐる頭とすれすれにあるガラス窓、……僕の足とすれすれにある向側の壁、……真四角な狭い、あまりにも狭い二・五米立方の一室……これは病室なのだらうか、隔離された独房なのだらうか。だが、僕は軽く、軽く生きてゆくよりほかはない。軽く、軽く、夜明けがた僕をつつんでくれた空気の甘いねむり、羽根のやうに柔らかなもの。……誰かが絶えず僕のことを祈つてくれてゐるにちがひない。……僕はぼんやり寝床の中でいつまでも纏らない思考を追つてゐる。
僕の、僕だけの隔離された食事は、もう階下にできてゐる。僕はそつと細い階段を下りてゆく。この細い古びた階段や天井や、いたるところが壁ががはり[#「壁がはり」の誤記か?]に、すりガラスが使用されてゐて、柱らしいものはない。奇妙な家屋の不安定感は、僕が動くたびに僕を脅やかし、いつでも頭上に崩れ落ちて来さうなのだ。僕は、そつと祈るやうにしか歩けない。それに、この家で習慣づけられた、おどおどした動作はもう僕の身についてゐる。そして、僕が階下にゐると、この家の人たちは奥へ引込んでしまふのだが、僕はおどおどと囚人のやうな気持で貧しい朝の食事をのみこむ。それから、僕はそつと匐ふやうに階段を昇つてゆく。僕が階段を昇つてゆくのと入れちがひに、階下には細君の出てくる足音がきこえる。
僕は自分の部屋に戻り、ほつと自分に立戻る。だが、すぐに、何かに呪縛されてゐる感覚が甦る。僕は板の上にごろりと横たはり、狭い真四角な箱(二・五米の部屋)を眺める。僕は幽閉されてゐるのだらうか。この小さな、すりガラスの窓から射してくる光は、実験装置の光線かもしれない。人間が何百日間、飢餓感に堪へてゆけるか、衰弱して肺を犯されかけた男が何百日間、凄惨な環境に生きてゆけるものか、――そんなことを測定されてゐるのかもしれない。(しかし、一たい、何のためにだ?)僕はガラス箱のなかの一匹の虫けらなのか。脱けだしたい。逃げだしたい。僕は少しづつ、ぢりぢりしてくる。……
このガラス箱から僕が出てゆく時、と、僕はまだ板の間に横たはつたまま考へてゐる。と、あの穿きにくいゴム底靴の感覚がすぐ僕の蹠《あしうら》にある。あの靴は僕が上京する時、広島の廃墟の露店で求めたものなのだが、総ゴム底のくらくらする、だぶだぶの靴は、僕のひだるい躯を一そうふらふらさす。そして僕がこの階段下の狭い玄関、一メートル四方にも足りない土間で、その靴を穿いて立上ると、この窮屈な家屋全体の不安定感は僕の靴の踵に吸収されてしまふ。だから、僕は道路の方へ歩きだしても、足もとの地面はくらくらし、遠い頭上から何かサツとおそろしい光線がやつて来さうになつたり、魔のやうな時刻がつきまとふのだが……。
このあたりの道がふと魔法のやうにおもはれてくる。さきほど僕は箱のなかから抜け出して、出勤にはまだ少し早いが、焼跡の往来を抜け溝橋を渡つて、とぼとぼとこの坂路をのぼつた。急な坂だが、そこを登りつめたところに、茫々とした叢がある。僕は何気なく叢の方へ踏み入つた。ふと見ると、坂の下に展がる空間は、樹木も家屋も空も、靄のなかに弱められてゐる。足許の草は黄色に枯れてゐて、薄の穂がかすかに白い。すべてが追憶のやうにうつすらとしてゐるのだ。なにもかも弱々しく、冷え冷えした空気まで実にひつそりしてゐる。これはどうした時刻なのだ?……突然、僕には疑問が涌く。僕はたしか昔何度もこんな時刻や心象を所有してゐた筈だが、それが今僕を迷路に陥し込んだのか。僕はこれから何処へ出掛けて行かうとしてゐるのだらう……(いつもの夜学へか?)これはいつもの路を歩いてゐるのだらうか。この路を歩いてゐるのは僕なのだらうか。僕はほんとに存在してゐるのか。眼の前にある靄を含んだ柔らかい空気は優しく優しく顫へてくる。僕のなかにも何か音楽のやうなものがふるへだす。これはどうした時刻なのだ?……冷え冷えした空気と僕の体温……溶けあつて僕はうつとり歩いてゐる。もしかすると、僕は荒涼とした地方を逍遙つてゐる贅沢な旅人かもしれない。砂丘や枯草が心細い影絵ではあつても、大理石の宿に着けば熱い湯がこんこんと涌いてゐる。僕のなかにメルヘンが涌く。メルヘン? あ、さうだ、僕はもう百日位、誰とも(生きてゐる人間と)話らしい話をしたことがないのだ。メルヘン? 僕はやつぱり孤独な旅人らしい。
僕の提げてゐる骨折れ蝙蝠傘、……僕の踵に重くくつついてゐるゴム底靴、……僕の肩にぶらぶらする汚れた雑嚢、それらが、ふと僕をみじめな夜学教師に突落とす。メルヘン……災厄と飢餓の季節の予感に虫たちは、みなそれぞれ食糧や宝物を地下に貯へた。やがて天地を覆へす嵐が来た。そのとき僕はまる裸で地上に放り出された。あのときから僕はあはれな一匹の虫であつた。さうだ、虫けら
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