きを発してゐる、と、すぐその喚き声があの夜河原で号泣してゐる断末魔の声を連想させた。腸を絞るやうな声と、頓狂な冗談の声は、まるで紙一重のところにあるやうであつた。私は左側の眼の隅に異状な現象の生ずるのを意識するやうになつた。ここへ移つてから、四五日目のことだが、日盛の路を歩いてゐると左の眼の隅に羽虫か何か、ふわりと光るものを感じた。光線の反射かと思つたが、日蔭を歩いて行つても、時々光るものは目に映じた。それから夕暮になつても、夜になつても、どうかする度に光るものがチラついた。これはあまりおびただしい焔を見た所為であらうか、それとも頭上に一撃を受けたためであらうか。あの朝、私は便所にゐたので、皆が見たといふ光線は見なかつたし、いきなり暗黒が滑り墜ち、頭を何かで撲りつけられたのだ。左側の眼蓋の上に出血があつたが、殆ど無疵といつていい位、怪我は軽かつた。あの時の驚愕がやはり神経に響いてゐるのであらうか、しかし、驚愕とも云へない位、あれはほんの数秒間の出来事であつたのだ。
私はひどい下痢に悩まされだした。夕刻から荒れ模様になつてゐた空が、夜になると、ひどい風雨となつた。稲田の上を飛散る風の唸りが、電燈の点かない二階にゐてはつきりと聞える。家が吹飛ばされるかもしれないといふので、階下にゐる次兄達や妹は母屋の方へ避難して行つた。私はひとり二階に寝て、風の音をうとうとと聞いた。家が崩れる迄には、雨戸が飛び、瓦が散るだらう。みんなあの異常な体験のため神経過敏になつてゐるやうであつた。時たま風がぴつたり歇むと、蛙の啼声が耳についた。それからまた思ひきり、一もみ風は襲撃して来る。私も万一の時のことを寝たまま考へてみた。持つて逃げるものといつたら、すぐ側にある鞄ぐらゐであつた。階下の便所に行く度に空を眺めると、真暗な空はなかなか白みさうにない。パリパリと何か裂ける音がした。天井の方からザラザラの砂が墜ちて来た。
翌朝、風はぴつたり歇んだが、私の下痢は容易にとまらなかつた。腰の方の力が抜け、足もとはよろよろとした。建物疎開に行つて遭難したのに、奇蹟的に命拾ひをした中学生の甥は、その後毛髪がすつかり抜け落ち、次第に元気を失つてゐた。そして、四肢には小さな斑点が出来だした。私も体を調べてみると、極く僅かだが、斑点があつた。念のため、とにかく一度診て貰ふため病院を訪れると、庭さきまで患者が溢れてゐた。尾道から広島へ引上げ、大手町で遭難したといふ婦人がゐた。髪の毛は抜けてゐなかつたが、今朝から血の塊りが出るといふ。姙つてゐるらしく、懶さうな顔に、底知れぬ不安と、死の近づいてゐる兆を湛へてゐるのであつた。
舟入川口町にある姉の一家は助かつてゐるといふ報せが、廿日市の兄から伝はつてゐた。義兄はこの春から病臥中だし、とても救はれまいと皆想像してゐたのだが、家は崩れてもそこは火災を免れたのださうだ。息子が赤痢でとても今苦しんでゐるから、と妹に応援を求めて来た。妹もあまり元気ではなかつたが、とにかく見舞に行くことにして出掛けた。そして、翌日広島から帰つて来た妹は、電車の中で意外にも西田と出逢つた経緯を私に語つた。
西田は二十年来、店に雇はれてゐる男だが、あの朝はまだ出勤してゐなかつたので、途中で光線にやられたとすれば、とても駄目だらうと想はれてゐた。妹は電車の中で、顔のくちやくちやに腫れ上つた黒焦の男を見た。乗客の視線もみんなその方へ注がれてゐたが、その男は割りと平気で車掌に何か訊ねてゐた。声がどうも西田によく似てゐると思つて、近寄つて行くと、相手も妹の姿を認めて大声で呼びかけた。その日収容所から始めて出て来たところだといふことであつた。……私が西田を見たのは、それから一ヶ月あまり後のことで、その時はもう顔の火傷も乾いてゐた。自転車もろとも跳ね飛ばされ、収容所に担ぎ込まれてからも、西田はひどい辛酸を嘗めた。周囲の負傷者は殆ど死んで行くし、西田の耳には蛆が湧いた。「耳の穴の方へ蛆が這入らうとするので、やりきれませんでした」と彼はくすぐつたさうに首を傾けて語つた。
九月に入ると、雨ばかり降りつづいた。頭髪が脱け元気を失つてゐた甥がふと変調をきたした。鼻血が抜け、咽喉からも血の塊りをごくごくと吐いた。今夜が危なからうといふので、廿日市の兄たちも枕許に集つた。つるつる坊主の蒼白の顔に、小さな縞の絹の着物を着せられて、ぐつたり横はつてゐる姿は文楽か何かの陰惨な人形のやうであつた。鼻孔には棉の栓が血に滲んでをり、洗面器は吐きだすもので真赤に染まつてゐた。「がんばれよ」と、次兄は力の籠つた声で励ました。彼は自分の火傷のまだ癒えてゐないのも忘れて、夢中で看護するのであつた。不安な一夜が明けると、甥はそのまま奇蹟的に持ちこたへて行つた。
甥と一緒に逃げて助かつてゐた級
前へ
次へ
全8ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
原 民喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング