友の親から、その友達は死亡したといふ通知が来た。兄が廿日市で見かけたといふ保険会社の元気な老人も、その後歯齦から出血しだし間もなく死んでしまつた。その老人が遭難した場所と私のゐた地点とは二丁と離れてはゐなかつた。
 しぶとかつた私の下痢は漸く緩和されてゐたが、体の衰弱してゆくことはどうにもならなかつた。頭髪も目に見えて薄くなつた。すぐ近くに見える低い山がすつかり白い靄につつまれてゐて、稲田はざわざわと揺れた。
 私は昏々と睡りながら、とりとめもない夢をみてゐた。夜の灯が雨に濡れた田の面へ洩れてゐるのを見ると、頻りに妻の臨終を憶ひ出すのであつた。妻の一周忌も近づいてゐたが、どうかすると、まだ私はあの棲み慣れた千葉の借家で、彼女と一緒に雨に鎖ぢこめられて暮してゐるやうな気持がするのである。灰燼に帰した広島の家のありさまは、私には殆ど想ひ出すことがなかつた。が、夜明の夢ではよく崩壊直後の家屋が現れた。そこには散乱しながらも、いろんな貴重品があつた。書物も紙も机も灰になつてしまつたのだが、私の内心の昂揚を感じた。何か書いて力一杯ぶつつかつてみたかつた。
 ある朝、雨があがると、一点の雲もない青空が低い山の上に展がつてゐたが、長雨に悩まされ通したものの眼には、その青空はまるで虚偽のやうに思はれた。はたして、快晴は一日しか保たず、翌日からまた陰惨な雨雲が去来した。亡妻の郷里から義兄の死亡通知が速達で十日目に届いた。彼は汽車で広島へ通勤してゐたのだが、あの時は微傷だに受けず、その後も元気で活躍してゐるといふ通知があつた矢さき、この死亡通知は、私を茫然とさせた。
 何か広島にはまだ有害な物質があるらしく、田舎から元気で出掛けて行つた人も帰りにはフラフラになつて戻つて来るといふことであつた。舟入川口町の姉は、夫と息子の両方の看病にほとほと疲れ、彼女も寝込んでしまつたので、再びこちらの妹に応援を求めて来た。その妹が広島へ出掛けた翌日のことであつた。ラジオは昼間から颱風を警告してゐたが、夕暮とともに風が募つて来た。風はひどい雨を伴ひ真暗な夜の怒号と化した。私が二階でうとうと睡つてゐると、下の方ではけたたましく雨戸をあける音がして、田の方に人声が頻りであつた。ザザザと水の軋るやうな音がする。堤が崩れたのである。そのうちに次兄達は母屋の方へ避難するため、私を呼び起した。まだ足腰の立たない甥を夜具のまま抱へて、暗い廊下を伝つて、母屋の方へ運んで行つた。そこにはみんな起きてゐて不安な面持であつた。その川の堤が崩れるなど、絶えて久しくなかつたことらしい。
「戦争に負けると、こんなことになるのでせうか」と農家の主婦は嘆息した。風は母屋の表戸を烈しく揺すぶつた。太い突かひ棒がそこに支へられた。
 翌朝、嵐はけろりと去つてゐた。その颱風の去つた方向に稲の穂は悉く靡き、山の端には赤く濁つた雲が漾つてゐた。――鉄道が不通になつたとか、広島の橋梁が殆ど流されたとかいふことをきいたのは、それから二三日後のことであつた。

 私は妻の一周忌も近づいてゐたので、本郷町の方へ行きたいと思つた。広島の寺は焼けてしまつたが、妻の郷里には、彼女を最後まで看病つてくれた母がゐるのであつた。が、鉄道は不通になつたといふし、その被害の程度も不明であつた。とにかく事情をもつと確かめるために廿日市駅へ行つてみた。駅の壁には共同新聞が貼り出され、それに被害情況が書いてあつた。列車は今のところ、大竹・安芸中野間を折返し運転してゐるらしく、全部の開通見込は不明だが、八本松・安芸中野間の開通見込が十月十日となつてゐるので、これだけでも半月は汽車が通じないことになる。その新聞には県下の水害の数字も掲載してあつたが、半月も列車が動かないなどといふことは破天荒のことであつた。
 広島までの切符が買へたので、ふと私は広島駅へ行つてみることにした。あの遭難以来、久振りに訪れるところであつた。五日市まではなにごともないが、汽車が己斐駅に入る頃から、窓の外にもう戦禍の跡が少しづつ展望される。山の傾斜に松の木がゴロゴロと薙倒されてゐるのも、あの時の震駭を物語つてゐるやうだ。屋根や垣がさつと転覆した勢をその儘とどめ、黒々とつづいてゐるし、コンクリートの空洞や赤錆の鉄筋がところどころ入乱れてゐる。横川駅はわづかに乗り降りのホームを残してゐるだけであつた。そして、汽車は更に激しい壊滅区域に這入つて行つた。はじめてここを通過する旅客はただただ驚きの目を瞠るのであつたが、私にとつてはあの日の余燼がまだすぐそこに感じられるのであつた。汽車は鉄橋にかかり、常盤橋が見えて来た。焼爛れた岸をめぐつて、黒焦の巨木は天を引掻かうとしてゐるし、涯てしもない燃えがらの塊は蜿蜒と起伏してゐる。私はあの日、ここの河原で、言語に絶する人間の苦悶を見
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