せつけられたのだが、だが、今、川の水は静かに澄んで流れてゐるのだ。そして、欄杆の吹飛ばされた橋の上を、生きのびた人々が今ぞろぞろと歩いてゐる。饒津公園を過ぎて、東練兵場の焼野が見え、小高いところに東照宮の石の階段が、何かぞつとする悪夢の断片のやうに閃いて見えた。つぎつぎに死んでゆく夥しい負傷者の中にまじつて、私はあの境内で野宿したのだつた。あの、まつ黒の記憶は向に見える石段にまだまざまざと刻みつけられてあるやうだ。
 広島駅で下車すると、私は宇品行のバスの行列に加はつてゐた。宇品から汽船で尾道へ出れば、尾道から汽車で本郷に行けるのだが、汽船があるものかどうかも宇品まで行つて確かめてみなければ判らない。このバスは二時間おきに出るのに、これに乗らうとする人は数丁も続いてゐた。暑い日が頭上に照り、日蔭のない広場に人の列は動かなかつた。今から宇品まで行つて来たのでは、帰りの汽車に間に合はなくなる。そこで私は断念して、行列を離れた。
 家の跡を見て来ようと思つて、私は猿猴橋を渡り、幟町の方へまつすぐに路を進んだ。左右にある廃墟が、何だかまだあの時の逃げのびて行く気持を呼起すのだつた。京橋にかかると、何もない焼跡の堤が一目に見渡せ、ものの距離が以前より遙かに短縮されてゐるのであつた。さういへば、※[#「品の口のかわりに田/糸」、第3水準1−90−24、33−下−14]々たる廃墟の彼方に山脈の姿がはつきり浮び出てゐるのも、先程から気づいてゐた。どこまで行つても同じやうな焼跡ながら、夥しいガラス壜が気味悪く残つてゐる処や、鉄兜ばかりが一ところに吹寄せられてゐる処もあつた。
 私はぼんやりと家の跡に佇み、あの時逃げて行つた方角を考へてみた。庭石や池があざやかに残つてゐて、焼けた樹木は殆ど何の木であつたか見わけもつかない。台所の流場のタイルは壊れないで残つてゐた。栓は飛散つてゐたが、頻りにその鉄管から今も水が流れてゐるのだ。あの時、家が崩壊した直後、私はこの水で顔の血を洗つたのだつた。いま私が佇んでゐる路には、時折人通りもあつたが、私は暫くものに憑かれたやうな気分でゐた。それから再び駅の方へ引返して行くと、何処からともなく、宿なし犬が現れて来た。そのものに脅えたやうな燃える眼は、奇異な表情を湛へてゐて、前になり後になり迷ひ乍ら従いてくるのであつた。
 汽車の時間まで一時間あつたが、日蔭のない広場にはあかあかと西日が溢れてゐた。外郭だけ残つてゐる駅の建物は黒く空洞で、今にも崩れそうな印象を与へるのだが、針金を張巡らし、「危険につき入るべからず」と貼紙が掲げてある。切符売場の、テント張りの屋根は石塊で留めてある。あちこちにボロボロの服装をした男女が蹲つてゐたが、どの人間のまはりにも蠅がうるさく附纏つてゐた。蠅は先日の豪雨でかなり減少した筈だが、まだまだ猛威を振つてゐるのであつた。が、地べたに両足を投出して、黒いものをパクついてゐる男達はもうすべてのことがらに無頓着になつてゐるらしく、「昨日は五里歩いた」「今夜はどこで野宿するやら」と他人事のやうに話合つてゐた。私の眼の前にきよとんとした顔つきの老婆が近づいて来て、
「汽車はまだ出ませんか、切符はどこで切るのですか」と剽軽な調子で訊ねる。私が教へてやる前に、老婆は「あ、さうですか」と礼を云つて立去つてしまつた。これも調子が狂つてゐるのにちがひない。下駄ばきの足をひどく腫らした老人が、連れの老人に対つて何か力なく話しかけてゐた。

 私はその日、帰りの汽車の中でふと、呉線は明日から試運転をするといふことを耳にしたので、その翌々日、呉線経由で本郷へ行くつもりで再び廿日市の方へ出掛けた。が、汽車の時間をとりはづしてゐたので、電車で己斐へ出た。ここまで来ると、一そ宇品へ出ようと思つたが、ここからさき、電車は鉄橋が墜ちてゐるので、渡舟によつて連絡してゐて、その渡しに乗るにはものの一時間は暇どるといふことをきいた。そこで私はまた広島駅に行くことにして、己斐駅のベンチに腰を下ろした。
 その狭い場所は種々雑多の人で雑沓してゐた。今朝尾道から汽船でやつて来たといふ人もゐたし、柳井津で船を下ろされ徒歩でここまで来たといふ人もゐた。人の言ふことはまちまちで分らない、結局行つてみなければどこがどうなつてゐるのやら分らない、と云ひながら人々はお互に行先のことを訊ね合つてゐるのであつた。そのなかに大きな荷を抱へた復員兵が五六人ゐたが、ギロリとした眼つきの男が袋をひらいて、靴下に入れた白米を側にゐるおかみさんに無理矢理に手渡した。
「気の毒だからな、これから遺骨を迎へに行くときいては見捨ててはおけない」と彼は独言を云つた。すると、「私にも米を売つてくれませんか」といふ男が現れた。ギロリとした眼つきの男は、
「とんでもない、俺達は朝
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