廃墟から
原民喜
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【テキスト中に現れる記号について】
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「品の口のかわりに田/糸」、第3水準1−90−24、33−下−14]
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八幡村へ移つた当初、私はまだ元気で、負傷者を車に乗せて病院へ連れて行つたり、配給ものを受取りに出歩いたり、廿日市町の長兄と連絡をとつたりしてゐた。そこは農家の離れを次兄が借りたのだつたが、私と妹とは避難先からつい皆と一緒に転がり込んだ形であつた。牛小屋の蠅は遠慮なく部屋中に群れて来た。小さな姪の首の火傷に蠅は吸着いたまま動かない。姪は箸を投出して火のついたやうに泣喚く。蠅を防ぐために昼間でも蚊帳が吊られた。顔と背を火傷している次兄は陰鬱な顔をして蚊帳の中に寝転んでゐた。庭を隔てて母屋の方の縁側に、ひどく顔の腫れ上つた男の姿――そんな風な顔はもう見倦る程見せられた――が伺はれたし、奥の方にはもつと重傷者がゐるらしく、床がのべてあつた。夕方、その辺から妙な譫言をいふ声が聞えて来た。あれはもう死ぬるな、と私は思つた。それから間もなく、もう念仏の声がしてゐるのであつた。亡くなつたのは、そこの家の長女の配偶で、広島で遭難し歩いて此処まで戻つて来たのだが、床に就いてから火傷の皮を無意識にひつかくと、忽ち脳症をおこしたのださうだ。
病院は何時行つても負傷者で立込んでゐた。三人掛りで運ばれて来る、全身硝子の破片で引裂かれてゐる中年の婦人、――その婦人の手当には一時間も暇がかかるので、私達は昼すぎまで待たされるのであつた。――手押車で運ばれて来る、老人の重傷者、顔と手を火傷してゐる中学生――彼は東練兵場で遭難したのださうだ。――など、何時も出喰はす顔があつた。小さな姪はガーゼを取替へられる時、狂気のやうに泣喚く。
「痛い、痛いよ、羊羹をおくれ」
「羊羹をくれとは困るな」と医者は苦笑した。診察室の隣の座敷の方には、そこにも医者の身内の遭難者が担ぎ込まれてゐるとみえて、怪しげな断末魔のうめきを放つてゐた。負傷者を運ぶ途上でも空襲警報は頻々と出たし、頭上をゆく爆音もしてゐた。その日も、私のところの順番はなかなかやつて来ないので、車を病院の玄関先に放つたまま、私は一まづ家へ帰つて休まうと思つた。台所にゐた妹が戻つて来た私の姿を見ると、
「さつきから『君が代』がしてゐるのだが、どうしたのかしら」と不思議さうに訊ねるのであつた。
私ははつとして、母屋の方のラジオの側へつかつかと近づいて行つた。放送の声は明確にはききとれなかつたが、休戦といふ言葉はもう疑へなかつた。私はじつとしてゐられない衝動のまま、再び外へ出て、病院の方へ出掛けた。病院の玄関先には次兄がまだ呆然と待たされてゐた。私はその姿を見ると、
「惜しかつたね、戦争は終つたのに……」と声をかけた。もう少し早く戦争が終つてくれたら――この言葉は、その後みんなで繰返された。彼は末の息子を喪つていたし、ここへ疎開するつもりで準備してゐた荷物もすつかり焼かれてゐたのだつた。
私は夕方、青田の中の径を横切つて、八幡川の堤の方へ降りて行つた。浅い流れの小川であつたが、水は澄んでゐて、岩の上には黒とんぼが翅を休めてゐた。私はシヤツの儘水に浸ると、大きな息をついた。頭をめぐらせば、低い山脈が静かに黄昏の色を吸集してゐるし、遠くの山の頂は日の光に射られてキラキラと輝いてゐる。これはまるで嘘のやうな景色であつた。もう空襲のおそれもなかつたし、今こそ大空は深い静謐を湛へてゐるのだ。ふと、私はあの原子爆弾の一撃からこの地上に新しく墜落して来た人間のやうな気持がするのであつた。それにしても、あの日、饒津の河原や、泉邸の川岸で死狂つてゐた人間達は、――この静かな眺めにひきかへ、あの焼跡は一体いまどうなつてゐるのだろう。新聞によれば、七十五年間は市の中央には居住できないと報じてゐるし、人の話ではまだ整理のつかない死骸が一万もあつて、夜毎焼跡には人魂が燃えてゐるといふ。川の魚もあの後二三日して死骸を浮べてゐたが、それを獲つて喰つた人間は間もなく死んでしまつたといふ。あの時、元気で私達の側に姿を見せてゐた人達も、その後敗血症で斃れてゆくし、何かまだ、惨として、割りきれない不安が附纏ふのであつた。
食糧は日々に窮乏してゐた。ここでは、罹災者に対して何の温かい手も差しのべられなかつた。毎日毎日、かすかな粥を啜つて暮らさねばならなかつたので、私はだんだん精魂が尽きて食後は無性に睡くなつた。二階から見渡せば、低い山脈の麓からずつとここまで稲田はつづいてゐる。青く伸びた稲は炎天にそよいでゐるのだ。あれは地の糧であらうか、それとも人間を飢ゑさすためのものであ
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